大韓航空機撃墜事件から35年を経て③

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事件の話から、ひとり親家庭の話に。
せっかくなので、これをもう少し深めてみます。

さてさて、ぐっちです。
前回の母から受けてきたもの。について今回は話を深めてみたいと思います。
もちろんお金的な話も重要な要素には違いないのですが、主に考え方や精神的な部分に焦点を当てていきます。

苦境をしのいだ防具

母子家庭な状況を、あまりマイナスだとも何も思わず感じず過ごしてこれたのは、母の考え方や信じるものの影響を私自身も受けていたというところが大きかったです。
いろんな言葉や行動があるでしょうが、ここでは私の今に分かりやすく影響しているものをいくつかを紹介します。

まず一つはこれです。

「うちはうち、よそはよそ」という考え方

母が良く言っていて、その考え方はきっちり身に付いているような気がします。
だから今もこのような仕事に踏み出せているのでしょうし。

さて、これは苦境を苦境だと思わない。という方向の考え方ですね。

シーン① 小学校での宿題

いつだったかははっきり覚えてはいないのですが、小学校3年生ぐらいだったでしょうか。
「父親の仕事を調べよう」みたいな課題(時代ですねw)が出たときです。

私は特に何の不満も持たず、
「おとんおらんからやらんでええか(ラッキー)」
みたいな相談を母にしました。
すると、母は
「よそはそうやけど、あなたはあなたができることをやりなさい」
的なことを言って自分の仕事を説明してくれました。

そして、そのことについても深くも考えず、先生に「うちは母親しかいないので、母親の仕事でいいか」と聞いて、普通のこととして発表しました。
しかも、別に言わなくてもいいのにご丁寧に「父親がいないので母親の仕事をー・・・」みたいなことを“これが私の普通ですけど”な感じの自然体で発表していた記憶があります。

そして、そのことはそのまま受け入れられたのかどうか、とにかく私の中にはマイナスの感情にはなっていないので、別に“私はわたし”でいいんだという考えが強化されたんだと思います。むしろ、“ちょっと人と違う私”のほうがいいんじゃないかとも思っていた気さえします。

シーン② サンタからの贈り物

また、「よそはよそ、うちはうち」の話ではもう一つよく覚えていることがあります。
それは、クリスマスプレゼントです。

皆さんはどんなものをもらいましたか?
テレビゲームをはじめ、楽しいおもちゃをもらって人が多いと思うのですが、私にはそのような記憶はありません。

うちでもらえるものとは、いくつになっても“キリスト教のグッズ”でした。
聖書や、キリスト教の逸話が描かれたマンガ、音楽CDなどなど。
今考えると、母なりに工夫をしていたんだなぁとは思うのですが、当時は、何で・・・orzという気持ちでいっぱいでしたw

どんなにゲームを望んでも、母にお願いしても、
その日には、それが置かれてありましたから。

そして、無邪気に母に相談すると、
サンタを知らない年ぐらいでは「さぁねー、なんでだろうねー」と一緒に考えるフリから、
学年が上がっていくにつれて、「よそはよそ、うちはうちだから」みたいな話になっていきました。

“金持ちの子はたくさんおもちゃがもらえ、お金のない家の子は各家の努力や工夫しているものがもらえている”ようなマンガの描写も全然違う角度から入ってきてたのもあり、それぞれの家の事情ということなら「まぁそういうもんか」と思っていました。なので、「ほしいゲームがもらえない、できない」以外の不満は特には持たなかった記憶です。

見えない力としての考え方

さて、サンタのエピソードもそうですが母はキリスト教を信仰していました。
そして、キリスト教の考え方には、私たち家族は多くが守られ、また救われ、今の私の価値観の一部になっていることは間違いないです。

母は敬虔なクリスチャンでしたから、いろんな言葉に力をもらっていたのだと思うのですが、ここでは有名どころの言葉と、それがどのように力になるのかを少しだけ話したいと思いますが、

「宗教」と聞くだけで、敬遠したくなる方のために、ここでの「宗教」扱いについて少し。

宗教アレルギーの人はこちらをお読みください

“宗教”と聞くと、一歩も二歩も引いてしまう人もいらっしゃいますので、ちょっと宗教について、一言二言。異論反論いろいろあると思いますが本題ではないのでサクッと行きます。
宗教アレルギーがない方は次に進んでください。

まず、宗教とは、それ自体怪しいものではないですよ。
宗教とはとっても平たく言うと、「考え方」の流派ぐらいがしっくりくるでしょうか。

広く一般に宗教という言葉は、怪しいもの、怖いもの、事件になるものだけが取り上げられて、宗教という言葉と結び付けて語られるから嫌なイメージがどんどん塗り重ねられているだけです。それ自体は怪しいものではないです。
確かに、ネガティブな取り上げられ方以外でも、“奇跡”“超能力”とかを持ち出されると、わけわからなくなってどうしたらいいのか分からなくなる感覚も分からなくはないのです。

ただ、単語や言葉だけに過剰反応して拒否するだけだと、悪いものが宗教じゃない仮面をかぶって内側に入ってくると、あっという間に利用されたりだまされたりします。(というか、そういう人が現実にいて事件だけが世に出るとますます宗教は誤解されていくのですが)
だから、“宗教”を理解不能だ怪しいものだと恐れて距離を取るのもよいですが、もしも一生涯に渡って距離を取り続ける確固たる意志を持てないかもしれないなら、フラットで納得感のある考え方を身につけるなど、自分なりの付き合い方が必要かと思います。これはただの説教です。

ちょっと前に「しくじり先生」という番組でやっていたこれ。

辺見マリ先生による洗脳への手順解説「AOSK」
安心(10%) → 驚き(60%) → 嫉妬(90%) → 囲い込み(100%)

こちらの考え方を使わせてもらうと、
宗教というだけで拒絶するという強固な玄関をくぐり抜けられたら、その内側は無垢な状態です。
そこに入られた時点で「安心」はクリアされ「驚き」を支配する下地が整えられているような状態と同じです。
もちろん無垢ゆえの幼さですから、悪い人でないことを願うほかは抵抗する手段がありません。

もちろん、いろんな人がいろんな宗教を信じているし、同じ宗教でもそれぞれの集まりで少しずつ色も違うでしょうし、そもそも宗教を人をだましたりうまく利用したりする手段として使う人もいるので、どの宗教だから安心とかあの人も信仰しているから安心というものでもないです。そのあたりも含めての“付き合い方”を少しずつ身につけられてはどうでしょう、というお話です。

“何も知らないままにシャットアウトする”のも、“妄信の中に引きずり込まれる”のも、どちらも紙一重な問題ですので、自分なりの理解や考えをお持ちになるほうがいいと思います。

戻りまーす!・・・と思ったのですが、ちょっと長くなってしまったので今日は、一旦ここで。

このキリスト教の考え方に「ひとり親と育て上げなければならない子どもたち」一家がどう力をもらったのか。
続きは、

見えない父としてのキリスト教

と題して書いていきたいと思います。

つづく