台車を引く人のたとえ-「甘えるな」「さぼるな」「頑張れ」の前に。

ひとの成長人生, 最近の若いやつは, たとえ話

さてさて、ぐっちです。

記事の更新は久しぶりになってしまいました。
ようやくブログの設定も落ち着いてきたので記事もちょこちょこ更新していこうと思います!

今回はよくお話する、人生のたとえ話。

台車を引く人のたとえ


とある人たちが台車を引いて歩いています。
台車の荷台には将来の自分自身が載せられています。どこまで運んでいくのでしょうか。

Aさんの場合

かつて高い山を登れたAさんは言います。
「わたしも台車を引きながらこの山を登るのは本当にしんどかった。でも本当に頑張って山を登った。みんなもわたしぐらい努力すれば同じように登れるはずよ。山を登れないやつはさぼっているだけだ。」と。

その人の台車をよく見ると、とても整備が行き届いていて引きやすそう。よく見ればこっそり電動アシストまでついています。そして、登山ルートが記された地図まで。それでもその高い山を登るのは大変だったようです。

Bさんの場合

また別の山を登ったBさんは言います。
「山を登るのとっても楽しいね。どんどん見える景色が変わってとても楽しい。みんなも声をかけてくれるしサイコー!みんなは何でこんな楽しいことができないんだろう。」と。

その人の様子を見ていると、いつも健康で元気いっぱいです。きっと病気をしたこともないのでしょう。そして、周りからたくさんの差し入れが入ったり、応援してくれたりする人がいました。

Cさんの場合

そして、山の途中でうずくまってしまったCさんは言います。
「わたしは本当にダメなやつだ。みんなができることすらできない」と。

Cさんの台車はボロボロでタイヤはパンクしています。そして、登山の装備はほとんどありません。さらには、通常の登山ルートではなく、裸足ではとても進めないようなごつごつした岩がたくさんある道を登ろうとしていました。岩に台車を取られながら懸命に。そしてついには力尽きてしまいました。

別の視点で生きる人を想う

もちろん、どの人の感覚も間違いではありません。それぞれが感じ取ったものですから。
それでも、いやいやそうは言っても・・・となることもあります。なぜなら人は自分の経験からしか物事を見ることができないからです。(関連記事

でも、世の中には本当にいろいろな人が生きています。
そして、自分の人生を無茶苦茶にしてやろう、ダメにしてやろうと思いながら生きている人はほとんどいないように思います。
それでも、山に登れる人もいれば登れない人もいるのです。

背負っているものの大きさによって、荷台には重荷が積まれていきます。
自分を含めその人を大事にしてくれる人がいなければ、台車はボロボロになっていきます。
育ってきた環境がひどければ、道は果てしなく悪路に変わっていきます。

どの人が進む道であっても、1つとして同じ道はないのです。
恵まれたことに舗装されたかのような平坦な道もあれば、凸凹がひどい道も、通れないほどの段差の道、はたまた針が敷かれているような道や両側が崖になっている道もあるかもしれません。そして、道は日々刻刻と様子を変えていきます。

過酷を極める道を台車を引いて進む人にとって、「頑張れ」「甘えるな」という声掛けほど無慈悲なものはないでしょう。
それを少しでもイメージしてもらえると、頭ごなしに「さぼっている」「甘えている」「みんなしんどい」などといって、ますますその道を悪路にすることも少なくなるでしょう。いや、少なくなってほしいと思っています。
そして、その人の見えている世界を想像して、どのように言葉をかけるのかを選んでほしいと思います。

繰り返し言いますが、自分の人生を無茶苦茶にしてやろう、ダメにしてやろうなんて初めから思っている人はいないのです。

第三者ができること

TOB塾としての関わりなら、相談しながら台車の持ち手のグリップを持ちやすいものに変えるか、車輪が回りやすいように油を差すか、あるいはこの道を進むとどんな未来が待っているのかを少し地図を書いてあげるぐらいでしょうか。
もし関係がしっかりできるのなら、これ以上進みにくい道にならないように、周りの環境との調整を行うこともできるかもしれません。

自分で頑張って進もう、進んでみようと思えて初めて、自分がどのような存在かを知る入り口に立てます。
その先には、自分の身の丈を受け入れるというハードルがあり、そこを受け入れて初めて自分の人生を歩み始められるのです。
育てに育てたイメージ上の自分と、現実のすべてが思ったようにいかない自分のギャップに心折れてしまうなんてことはよくあります。こんなはずでない自分を受け入れてもらえう環境は必須で必要です。

”教育”という分野においては、できるだけ本人が考えて進めるのであればそれが一番です。
周りは沿道で声援を送ったり、今の心境を聞いたり、見守ったりするぐらいがちょうどいいのかもしれません。

しかし、針の道を歩んできた人には、足の裏のケアが必要です。
そして、よく勘違いしている人がいますが、足の裏をけがしている人に靴を履かせてあげたらかといって、すぐには進めません。ちょっと考えてみればわかりますが、靴の中で傷口が痛むのですから。

また、両側が崖だと思っている人には視野を広げていくことが必要でしょう。
少しもミスできないと追い込まれた状況が続くとそのうち心が疲弊してしまいます。

    最近、フルコミット型のサポートがとても流行っています。大人向けのサービスとしてのそれはとてもいいと思うのですが”教育”の分野にはあまり向かないと考えています。(関連16)

それをどのようにすればできるだけ早く正しい道を進んでもらえるのか。
背景も状況も千差万別の中、私たちは何ができるのだろうか。自問自答の毎日です。