意味があることも大事だけど、意味がないことに意味を付けていくこともそれはそれで大事

ひとの成長

意味があると思えるものは、その意味が見えてるから、とても魅力的。
分かりやすく意味があることの代表例に、コスパが良いものが挙げられる。

コスパは分かりやすい意味

例えば損得勘定

ある日の買い物で、世の中の相場が10,000円を超えてきそうなのものを7,000円で手に入れられた。この買い物にかなりお得感がある。お得に感じるということは、自分にとって意味があったものだと言える。何と言っても他の人たちより3,000円もお得に買えたのだから。
この7,000円で10,000円以上のものを得られた状況はとてもコスパが良かったと言える。

例えばタイパ

コスパは経済的コストと得られる成果(パフォーマンス)のバランスのことだけど、最近は時間的コストを意識したタイパという言葉も生まれている。(世の中に経済的な余裕がなくなって、経済的コストの意識を持つのが当たり前になりすぎたためにこれ以上削れないからと、別のコストに意識が向いた可能性もある。)
それはさておき、1時間かかると言われていた用事が30分で終わらせることができた。これは30分時間を浮かせられたわけだから、タイパの良い動きができたと言っていい。

分かりやすい意味はすぐ覆る

ただ、この2つの例。この築いた意味もすぐに揺らいでしまったりする。

視野を広げるだけであっという間に揺らぐ意味

例えば、「私が7,000円でお得に買えた」と思っていて知り合いに「これいくらに見える?」って関西人っぽく聞いたとする。そのときに「あーそれ知ってる!毎月1日に行くと5,000円で売ってるやつやんねー?」なんて言われたら、さっきまでの私のそれを買った意味(=コスパの良さ)はあっという間に吹っ飛んでしまうだろう。それどころか「損した」とさえ思ってしまうかもしれない。

例えば、「30分でできた。早くできたぜ」と思っていても、「こうすれば10分でできるよ」というやり方に出会ってしまったら、「今までの自分の時間は何だったのか」と絶望感に苛まれてしまうかもしれない。

分かりやすい意味の弱点2

分かりやすい意味を求めることは、一見、何にも勝る最短コースが示されているように思える。その結果、分かりやすい意味の輝きに目を奪われてその意味以外のものに目が向けられなくなってしまう。

先の例で挙げたように、数値化されるものは分かりやすい意味になりやすい。

それは例えば、できるだけ短い時間で効率よくテストの点数を得ようとすると、丸暗記は非常に有効かもしれない。「これが来ればこう」「こういう時はこの公式に数字や単語を当てはめて・・・」てな具合にやれば、見た目上の満足な点数が取れるかもしれない。
それは例えば、仕事で今月の営業成績を上げるために大げさに盛ったセールストークでとりあえずその場で契約だけ結んでもらえばいいなんて思うかもしれない。

これは、「次のテストの点数を上げる」「今月の営業成績を上げる」という目先の成果だけにしか意味を求められない状態になっている。その結果、その先に待っていることは、「なんか頑張って覚えたけどもう全部忘れたわー」とか「お客さんから“思ったのと違う”とクレームが来たり、全然リピーターになってくれなかったり、契約期間短かったりするんだよねー」とか。

分かりやすい意味と分かりにくい意味

結局、世の中はだいたいコストとパフォーマンスのバランスは取れているものが多くて、異常にコスパが良いものは狙って手に入れられるものではない。狙って得られるこうコスパのものには多くの人が群がり、それを誰でも獲得できるものになれば、それ自体の価値が落ちる(=パフォーマンスが下がる)からだ。世の中うまい話はそんなに長くは続かない。

であれば、何を目的にするかが大事で、極端な例を挙げると
例えば勉強の場合、「目の前のテストの点数や成績が上がればいいのか(暗記でその場をしのぐ)」or「思考力や頭の使い方を学んで人生を豊かにしたいのか(いろんな考え方を理解していく)」とか、
例えば仕事の場合、「今月の私の成績だけが良ければいいのか」or「お客さんに喜んでもらうための仕事ができるのがいいのか」とか。

もちろん、理解するには時間がかかるし、喜んでもらってもすぐに営業成績に結びつかないかもしれない。
逆に、目先のことは見えやすいし分かりやすい。いろんな意味で余裕がなくなってくるとそっちに流れてしまいやすくなるのも当然。そもそも、古くから「水は低きに流れ 人は易きに流れる」と言われているわけだし、人間なんてそういうもの。だからこそ、目先以上のことが見えている人には価値があるんだけど、それはひとまず置いておいて。
(そのあたりの話にはこちらの短い記事を→手間がかかることにこそ価値がある | ぐっちの人生道場 (yamaguchimasashi.com)

すべては見方次第

今回は、「目に見えないものはコストが大きいけどリターンも大きい」という話ではなく、分かりやすい意味はすぐに取って代わられるという話。

最初のコスパ・タイパの例に戻るが、コスパが良い、タイパが良いは分かりやすい魅力で、それを追い求めたくなってしまう。そしてそれを得られたとしても、さらに自分の上を行くコスパ・タイパを獲得している人に出会うと損した気分や何とも言えない気持ちになってしまいやすいのは先に見た通り。

「数字はすぐに書き換えられる」。ただそれだけ。

数字は誰にでも分かりやすい指標。そして誰にとっても平等のように思えるし、だからこそ誰もが扱いやすいし求めやすいものになっている。
誰もが求めた結果、自分より良い数字を出す他者が居ても全くおかしいことではない。

そういう意味では一見分かりやすい損得勘定やコスパだからこそ誰もが求めるが故、その競争は激しくなっていくだろうし、その状況次第でコスパの悪いものになっていく可能性すらある。
いや、実は、そんな状況に依らずとも、コスパのいい・悪いはもっと簡単に書き換えられたりもする。身近な誰かのリアクション1つで、自分が持っていた意味や価値、お得感なんかは一瞬で揺らいだりする。

目先の利益とはそんなもの。だから、そんなコロコロ変わるような軽いものを相手にするときは、自分自身もコロコロ変わる心づもりが必要となる。
(結果そのためのコストを払うわけだから、いずれにしても上手くやろうとするためにはそれなりのコストを払い、それに見合ったリターンを得なければならない真理からは抜け出せない)

目先の意味がダメになった時ほど、さらに先の視点を持とう

目先の意味を求めようとすればするほど、目の前だけの意味のチェックポイントを通過していくだけなので、いずれ上手くいかないことが出てくることになる。

前に出した極端な例(=テスト勉強の際に「暗記でその場をしのぐ」or「考え方を理解する」)で考えると・・・
「定期テストのときに毎回一夜漬けの丸暗記でその場をしのぎ高得点を取っていた私は、友達からよく要領が良い、頭が良いと言われていた。時は過ぎ、学年が上がったことで実力テストや模擬試験などを受ける機会が出てきた。定期テストで取っていた高得点は模試では見る影もなく、友達からもあんなに頭良かったのにどうしたん?なんて言われる日々に。」

このような場合、定期テスト程度の範囲であれば、丸暗記が通用した(=要領の良さにつながる)。そして自分もそのコスパに満足していたわけだ。
そして、この方法(=その場で暗記して、その場のテストをこなして、あとはすべて忘れる)が通用しないテストが出てきてしまった。その結果今までの自分のイメージすら壊れていくことになってしまった。と。

「テストの点数」に意味を見出していたこの人は、定期テストではその意味を着実に獲得していて周りからの評価も得ていたが、範囲が広くなる実力テストや模試では意味を獲得することができなかった。
この状況に腐ってしまう人も多いが、実はこのときに「暗記でしのぐ」方法から「考え方を理解する」方向にシフトできるチャンスともとれる。

もちろんこれまでの「高得点を取れる自分」を一度捨てなければならないのは大変。出来ない自分を晒すことも抵抗あるだろうし、今までのお手軽にできる自分を作れていたコスパが恋しくなることもある。
そこをあえて、「今点数取れていないことは、理解を大事に積み重ねている証明」ぐらいの気持ちでいられると、先への道も拓けてくる。

目の前が上手くいかなくなったからこそ、視点も考え方も大転換してみて欲しい。

意味は自分でどうとでも足せる

もっと元も子もないことを言ってるように聞こえそうだが「意味は自分でどうとでもできる」し、「意味はあると思った人の元にしか降ってこない」。

「手っ取り早く成果が得られるのが素敵」と思えばその方向でその素敵さには出会えるだろうし、「ただ暗記しても意味がない」と思えば、すぐに忘れる暗記に意味はなくなる。
同じ暗記でも「暗記すればするほど短期記憶の暗記力が上がる」と思えば、暗記することは暗記力向上という意味になる。

実力テストや模試の成績が悪かったことも、「最悪だ」と思えば最悪だし、「今は理解を優先させているから地道に進んでいてOK」だと思えれば気持ちは明るい。
目先の成果に目を奪われるのではなく、どの意味を大事にするか、どの意味であれば自分はより良くなれるのかなど、いい方向の意味を集めてどんどん足していけると良い。
もちろん、いろんな方向で考えられるような柔軟な発想や思考が必要にはなるのだが。

そういう意味では一見意味がありそうなことも、意味がなさそうなこともどっちも同じぐらいの価値にしていくことができるということになる。

意味あること<意味ないこと

もしも意味を自由に付け足せるようになったのなら、意味のあると思っていること(目標)と、意味のないと思っていること(目標にならない取るに足らないこと)は、同じ価値のものにすることができるのだろうか。

これは、もしかすると、意味のないと思っていることの方が価値を持つ可能性がある。

どういうことかというと、意味がありそうなことはすでに意味がある(=目標として成り立っている)わけだから、放っておいてもその目標に近づいていくだろう。そしてその目標を達成すると一つの終わりになる。意味があるものはその終わりとセットになる。

一方、意味がなさそうなことは一つの始まり。意味がないことに意味を見出して、それに進み、達成し終わりとなる。意味がなさそうなことは新しい何かの始まりでもある。
もしも世の中に万人にとって意味のないものがあったとしても、それは誰にも意味を見出されず消えていくわけだから、今あるものは何らかの意味を持っているはず。その意味に気づいたときに、自分の中の新しい何かが始まる。

そう考えると、意味がないと思っているものが持つ可能性は、目の前の分かりやすい意味を持っているものを越えるかもしれない。
「後の者が先になり、先の者が後になる」。これも古くから言われる世の真理なんだろうと思う。

終わりに

意味の有る無しも、損も得も。全部自分次第。
どこまでいっても隣の芝生は青いし、ベストオブベストは奇跡のような出会いで毎回求められるようなものではない。それに出会えない自分でも良いやと受け入れて、この先をどうするかにエネルギー割いた方が良い。

とはいえ、手にできなかった青い芝生に固執する気持ちは人間誰しもにあるものだろうしそれを手放すことも簡単ではないはず。それによって人類がたくさんの犯罪を犯してきたことを思うとかなり難しいものだと思う。
だから、そういう手放せない自分と向かい合うのが第一歩かな。