高校中退者への社会からのまなざし
さてさて、ぐっちです。
今日は、「なぜ高校中退者の生く道は険しい(というイメージな)んだろう」ということを考えていきます。
その中でも、大人からの・社会からのまなざしを見ていこうと思います。
高校中退に対する厳しいまなざし
「甘やかしている」「放っておけばいい」「自業自得」「自己責任」
今の活動をしていると、このような声をいただくことがあります。
よくよく話を聞いていると、それらの言葉からは「おれたちの時代にはそんなものはなかった」「高校にも行ききれないやつは何をやってもうまくいかない」「だから近頃の若いのは弱いんだ」などの声が漏れ聞こえてきます。
「私も学生時代は大変だった。でも耐えた。なぜ今の若い子たちはそれに耐えられないのか」という類のあるある話です。
- ※なぜ、私の道があなたの道と同じだと思えるのでしょうか。人は自分の経験にすべてを寄せてしまうものだと思います。だから、世代が、ということだけではなく、同世代でも「俺にできたのだから、あいつにできないのはあいつがさぼってるからだ」といった類の話はよくききます。これについては別の記事で書いていきたいと思います(関連記事)。
「学校は理不尽を教えるところ」
また、純粋につらさを乗り越えていないパターンとしては、こんな声も聴かれます。
学校の先生も人ですので、その時の気分や状況などで、その場限りで空気を作ってやり過ごそうとすることもあるでしょう。
また、「評価する人」「評価される人」のゆるぎない上下関係と、その理不尽さをうまく伝えられない未熟さとで、結局その理不尽さに耐えるしかなくなる状況はとても理解できます。
特に、一昔前はハードな指導をされる先生も多そうですので、それに耐えた世代の方がそう考えられるのもわかります。
しかし、本当に忍耐力をつけるのに、この理不尽さの再生産しかないのでしょうか。
そして、その理不尽さに耐える忍耐力は、これからの社会でどの程度必要なんでしょうか。
最近の、目標がはっきりさせてそれに合ったやり方が提示され、それをひたすらに追わせる方法の流行りを見ていると、
論理の通らないものは非難を浴びる世の中なので、理不尽もすたれていく気がします。
自分の経験からのまなざしを超えて
貧しかった思い出も
辛かった思い出も
理不尽に耐えた思い出も
それを乗り越えたのか、やり過ごしたのか、大人になって暮らしている。
その人にとってはそれが自分を作っている一部であることは間違いし、
その経験から考えを広げていくことももっともなことです。
でも、今の高校中退者は、過去のその人ではないのです。
その人の置かれている場や状況、抱えているもの、社会の雰囲気。
何もかもが違います。
だから、その理不尽な激励や放置以外のやり方で、一人ひとりが生きていける道が作れるように
一緒に見守ってもらえると何よりうれしいです。
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