大韓航空機撃墜事件の遺族会会報(9.1NEWS)㉑

大韓航空機撃墜事件

52号(実質54号)平成3年1991年7月1日
前号から約1年後の9.1NEWS

・遺族会として10回目の慰霊祭に向けて
今年、来年は個々人で行く感じで。
今のような形だったんだろうか。
稚内市長も新市長に交代。時が流れていく。

個別で各々の遺族で行くと言っても、それ以外の活動も各々にできることを活発に動いている感じ。

・稚内新市長と会見。
稚内とコルサコフが姉妹都市に。
事件の報道記事などを渡し、現地での情報収集を依頼。
いろんな角度で動ける限りの意志を感じる。

・遺品の展示
どのように展示されたのか、
実家では写真が全く残っていないので調べるのも難しいが
情報集めてたらどっかで出会える時が来るんだろうか。

・サハリン平和友好の船
毎年出航しているよう。
友好都市をきっかけに定期航路便とかになっていくんだろうか。

数年前にサハリンに行った時も稚内-コルサコフ便で行った記憶。

・ソ連大統領との面会
手紙を渡せはしたが、
いろんなことが難しい状況で進んでいないことがうかがえます。
会報が発行されてないなかでも、いろいろな動きをされているよう。

・雲仙普賢岳の事件
所縁のカメラマンが亡くなられている。
こちらも1991年から30年。いろんな事件が起こりつつみんな生きていく。

 

53号(実質55号)平成3年1991年10月30日
・和解金の一部を寄贈
裁判などが続いているで、
維持整備にもいろんなコストがかかっているだろうから。
今の維持費も気になるところだけど。。。

・野焼き
大きな火祭り。これがしばらく続いていくんだろうか。
30年以降は声門海岸でやった1回だけ、かな。すごく印象には残っている。

・ソ連崩壊後のサハリン
1991年12月に完全崩壊したソビエト連邦。
その3か月前の9月の平和友好の旅。

今までに行けなかったところまでいけたり、
聞き取れる発言の範囲が広がったり。
ソビエトからロシアに変わろうとしている影響もあるのかも。

その結果が今のロシアだと見ると、、、
緩んでの結果がロシアになってからの発表なら、ソビエト時代の統制はもっとだったということなのだろうか。

・事件から丸八年経ってから
いろいろ各社の取材や報道なども進んでいるよう。
これもソ連崩壊の影響なのか。