社会が変われば、人も変わる。
そして、社会は2000年代を境に大きく変化したのではないかと思っています。
ということで、2000年代より前の時代を「昔」、より後の時代を「今」という事にして話を進めます。
社会の変化
【昔】人vs地球(自然)
人は「いかに豊かに暮らせるか」を目指して、地球を相手にして農業や工業など科学技術を発展させてきました。
最初は自然のほんの一部を使わせてもらいつつ、徐々に範囲を広げて行きながら、大胆に好き勝手に。
広大な自然を好き好き開拓していきましたが、やがて分かりやすく開拓できる範囲は徐々に小さくなっていきました。
その反面、開拓時に得た知識は膨大に膨れ上がって止まれなくなり、開拓の対象はどんどん複雑に、専門的になっていきました。
地球の開拓がある程度完了したということは、一般市民的には「これ以上便利になってもあまり変わらない」レベルに到達したことと言えるかもしれないが、経済的な論理の上では、それを止めることはできません。
生活上、これ以上変化を実感できるものをみんなで作っていけるような世界ではなくなってしまっています。
身近なところでは、たとえば、ガラケーがスマホになったのも2000年代後半だし、その頃になると携帯についているカメラの画素数が増えても感動は薄くなっていたでしょう。
「人間」とか「生命」の部分でも、ゲノム解析が完了したニュースや、クローン人間を作ったと表明した団体が出てきたのも2000年代です。(というか、クローン羊のドリーがちょうど30年も前の話なんですね)
【今】人vs人(情報)
このように、目に見えるものではないところの開発まで進むと、そう簡単に新たに未開拓の地を見つけるのは難しいでしょう。その結果、難しい未開拓の地を探して開発するよりも、「いかに相手を出し抜くか」と手っ取り早く利益を得る方向に舵を切っているように見えます。
新しい開発は複雑なことが分かる専門家に任せて、自分はその成果を享受して、うまく使いこなすことに注力していきます。
この流れに、情報革命による情報化も相まって、人を出し抜いた人が莫大な利益を得るような世の中が作り出されました。
人の視線や時間を奪ってそれをお金に換えるソシャゲや動画サイト、各種SNSなどもそうだし、制度の穴を突いてお金儲けする一部弁護士やコンサルなんかもそうだし、情報屋や夜職系、そもそも犯罪などアウトサイド・アウトロー系は特に分かりやすくイメージできます。
それでなくても、社内で足の引っ張り合いをしていたり、声の大きい人が周りを味方につけて・・・なんかも、「みんなで豊かになっていくために」ではなくて「自分(たち)だけが豊かになれればいい」という思考であるように思います。
社会からの影響(人・文化の変化)
社会が変われば、そこに生きる人たちの方向性や価値観が変わっていくことも当然の流れではあります。いくつかそんな雰囲気を挙げてみたいと思います。(ちゃんと研究しているものではないですので、かなりチェリーピッキング的な感じではありますが)。
全体を通しての雰囲気は、「自分から少しずつ範囲を広げてどこまでの社会」「今から少しずつ範囲を広げてどこまでの未来」「ここから少しずつ範囲を広げてどこまでの世界」のフォローしている範囲が「昔は広く」「今はとても狭い」という感じでしょうか。
アイドル
アイドル達も昔は「わたしの可愛さで時代を元気にするぞ」であったのに対し、今は「わたしってかわいいでしょ」というアピールに変わってきています。
■昔の例
「日本の未来は(wow,wow,wow,wow)世界がうらやむ(yeah,yeah,yeah,yeah)」モーニング娘。『LOVEマシーン』(1999)
■今の例
「かわいいだけじゃだめですか?」CUTIE STREET『かわいいだけじゃだめですか?』(2025)
フォロー体制
自然を相手にするのと違って、人の論理である「情報・デジタル」の世界は、ある種の人の思い通りの結果を導きます。これは「思い通りで分かりやすい」とも思えるし、「分からないけど何とかなる経験の喪失」とも見れます。
■昔の場合(農業の例)
人の業が誤っていても、自然の摂理でフォローされる部分があります。
例えば、何もわかっていない人が種を植え方を間違えても、天候などによってある程度には育つ場合などはよくあることです。
■今の場合(IT業の例)
人の業が誤ったら、誤ったまま出力される(自己責任)
自分の責任の範囲でしか動けなくなりますので、生きていける範囲が狭くなりやすいです。また、その範囲が狭まることすらもその人の自己責任であり、できなかったことややらなかったことを一個人の責任として済ます風潮が広がります。
自己理解
生きていくのに自分自身について知っておくことはとても重要であることは今も昔も変わらないはずです。しかし、その自分と向き合う環境はまるっきり変わってしまっています。
■昔の時間の流れ
今と比べると時間の流れもゆったりで、そもそも「ない」ことが前提で生活していることもあり、自分で工夫して試行錯誤する機会も、ぼーっと自分と向き合う時間も自然に存在していました。
■今の時間の流れ
さまざまな情報に溢れる「ある」社会なので、空いた時間はコンテンツで埋められます。また、コスパ・タイパなどの効率が重視されて、すぐにリターンを求める風潮もあります。そんな中、意味があるかどうかも分かりにくい「ぼーっとする時間」などは採用されにくく、結果、内省する時間は取れなくなっています。
その他
・家族のかたち
「大家族→核家族→ひとり親家庭→未婚」など、こちらも意識する範囲というか、対象とする範囲が小さくなっていることを感じさせます。
・カウンセリングとかヨガとか内面系の意識
「今ココで感じたこと」を大事にしましょうというメッセージをたくさん受け取ります。もちろんこれは、「(未来の自分のために)今ココを大事にしましょう」という意味で、その自分を捉えたうえで「変えられるものに目を向けよう」ということでもあるのですが、意識できる範囲が狭くなってくると「今ココさえ良ければ良い」という解釈になってしまいます。そうなると、本質的な効果を感じられないかもしれません。
・老害もこの文脈で
「今」にしか重点を置けないということは、「未来をイメージすることもなく」「過去にも価値を感じない」ということにつながります。「過去に価値を感じない」なら、経験者(年上)を軽視することも当然で、「なぜ敬語を使わないといけないのか分からない」とか「あいつほんま老害やわー」など相手を軽視する発言も出てくるでしょう(同様に「過去だけにこだわる年上」にも変わるべき点はあると思いますが、本論とはズレる話なので割愛です)。
そして、「未来をイメージできない」は、先に述べた社会の複雑化・専門化とも関連が強く、一部の人が一部の領域だけを見ている(その他大勢には見えない。誰かが作ったものを享受するのみ:社会を作っている実感は持ちにくい)状況につながります。
分かるものしか分からない世界で
表面上どんどん分かりやすくなる世の中で、分かりにくいものや見えないものを信じることは徐々に難しくなっていきます。その結果、チャレンジすることのハードルも上がっていくことでしょう。
という世の中ではありますが、そんな中どうしていくのが良いのか。
これはとても難しいテーマなので、また別の機会に。
・「人vs人」になっている部分も増えてはいるが、そうじゃない領域もまだまだ残っている。
とか
・人to人:指摘や批判はあっても、非難や断罪はないと知り、「そういう考え方もあるかー」ぐらいの受け止めで、取り入れたい価値観や考えだけもらっておく。
とか、そういう話を含めていろいろ整理できればと思いつつ。