「学校に行く理由」を自分で決めるべき時代に

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小中学生の不登校や通信制高校の生徒数がコロナ以降ますます増加しています(最新の統計2023-2024年の小中の不登校生の勢いはやや落ち着いて見えますが、これが2025年ではどうなっているのか要注目です)。なぜ増えているのか、さまざまな角度でその要因が言われていますが、ここでは社会的な要因について探ってみたいと思います。

もちろん個別具体的にはいろんな状況・状態の方々がいらっしゃるかと思いますが、こちらでは大きく社会全体の流れという感じで話を進めていきます。
また、「社会の変化」を論じていきますが、「変化前」と「変化後」のどちらが良いというものではありません。私自身の不登校や通信制高校への考え方は「学校には学校としての意義があり、学校以外にはそれぞれに合わせた人生の道がある」というスタンスです。そして、社会の仕組みについても同様のスタンスです。

1.人権意識と多様性の尊重

近年、「高齢者」「障がい者」「女性」「子ども」「労働者」などなど、どのような個人であってもそれぞれが動きやすくなるような施策がたくさん打たれてきました。社会がそうせざるを得ないような状況になったからという部分もありますが、ともあれ個人それぞれの権利を認めていく社会にすべく動き出しています。国や地方自治体としての政策の側面と、SNSなどの意見表明と賛同を可視化できるようになった個人の動ける側面の2つを見ていこうと思います。

1-1.国や地方、団体としての動き

条約や法律、各種ルールやガイドライン的なものを見ても、個人の権利や尊厳を守る方向で動いていることが分かります。特にここ10年の動きは目覚ましく、加速度的にいろんな法整備が進んでいっています。

  • 2016年4月:女性活躍推進法の施行
  • 2016年5月:ヘイトスピーチ解消法の施行
  • 2016年6月:部落差別解消推進法の施行
  • 2019年4月:改正 出入国管理法の施行(特定技能の新設)
  • 2019年5月:アイヌ施策推進法の施行
  • 2020年10月:「ビジネスと人権」行動計画(NAP)の策定
  • 2022年9月:「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」の策定
  • 2022年10月:改正 育児介護休業法の施行(産後パパ育休)
  • 2023年4月:こども基本法の施行と「こども家庭庁」の発足
  • 2023年6月:「LGBT理解増進法」の施行
  • 2024年4月:改正 障害者差別解消法の施行(合理的配慮の義務化)
  • 2024年6月:改正 出入国管理法の公布(2027年までに順次施行)
  • 2025年6月:改正 女性活躍推進法の公布(2026年4月〜順次施行)
  • 2025年12月:「ビジネスと人権」行動計画(NAP)の改定(※2026年度より本格開始)

その他、これらのように「法律として整備された」というところまでは行ってなくても、今も法律を作ったり変えたりしようと動いている人達や、身近なルールを変えることを目指そうとしている人達もたくさんいいます。例えば、「同性婚」についてどう考えるかなどはその顕著な例で、まだ法整備はされていないですが、各自治体レベルで「パートナーシップ制度」の運用が広がっています。

1-2.個人としての動き

法律のレベルではない目立った動きとして、「ブラック校則」とその対応についてはSNSなどを通して度々話題になりました。その結果、「校則」を生徒と一緒になって考えて変えていくような動きも出てきていました。
少し角度は変わりますが、SNSの力の強さについても少し触れていきましょう。SNSなどで話題になること(いわゆる「炎上」)によって、対応を迫られた企業などの例はたくさんあります。また、本人たち自身による予期せぬ炎上(いわゆる「バカッター」「バカスタグラム」など)によって、自分自身に被害・損害が出るケースも後を絶ちません。普段から身近に使っているものであり、力を発揮するにしても”うまくかみ合えば”の条件付きであるため、それほどの力を意識せず使っています。ですが、いきなり大企業が問題解決に動いてくれたり、数千万レベルの損害賠償+デジタルタトゥーを負ったりするリスクは知っておくべきでしょう。

話を戻して、この「ブラック校則」は、もともと「ブラック企業」や「ブラックバイト」という言葉から始まったものですが、今では「少しでもしんどいこと」「少しでもコスパが悪いと感じるもの」などにも簡単に「ブラックやわー」などと軽く訴えることができるようになりました。
同じような文脈で「ハラスメント」もかなり使われるようになりました。パワハラ、セクハラ、アカハラだけには留まらず、カスハラ、マタハラ、モラハラなどはよく聞きますし、一時期は変わったハラスメントが話題になり、ヌーハラなんてものもありました。そして、「ブラック○○」と同じように、世の中で感じるストレスを「○○ハラ」という言葉でライトに訴えられるようになりました。
さらに、「ブラック」「ハラスメント」と同じような文脈で、より強い言葉に「虐待」があります。「児童虐待」に始まり「高齢者虐待」「障碍者虐待」などがあり、近年では、子どもに親の宗教を強要する「宗教2世に対する虐待」や、熱心に子どもの教育をすることに対する「教育虐待」などとも話題になりました。

このように、どんどんと新しい「ブラック」、新しい「ハラスメント」、新しい「虐待」が生まれては消えています。逆に言えば、個人の権利や尊厳は何をどこまで守るべきなのか、何をすれば非難を受けるのかなど、その確たる指針はまだはっきりしていないことの現れでもあります。
そして一方進んでいた「子供を権利の主体とする」という流れもあります。1994年に「子どもの権利条約」に批准して以来、30年近くかけて「こども基本法」ができました。「子供の人権を尊重する」ような方向の流れもいくつか見えてきています。しかし各家庭として、具体的に「子供を権利の主体とする」とはどういうことなのかはまだまだ見えていない部分も多いだろうと思います。

そういった基準や指針を作っている最中でもあるため、玉石混交、いろんな発信が行われます。「人権を意識してもらうために社会的なムーブメントを作るための言葉選び」から、「切実な人権侵害を訴えるための言葉選び」もあるでしょうし、「日常のちょっとした不満を発散するための便乗的な言葉選び」まで、同じオンライン空間に投げられます。それも「本気・切実」から「創作・誇張」まで、様々な意図が入り乱れて飛んできます。そういう意味では、個人にとっては「個人の権利や尊厳を守ること」と「日常のちょっとした愚痴」との差は大きくないのかもしれません。

国など、社会の大きな流れと、個人としての動きについて見てきましたが、最後に「個人の権利を認めること」は大事なことではありますが、それは同時に「集団でなくなる」ことを意味するため、当然ながら別の部分で影響が出てきます。
「これまでの当たり前」であった社会や職場、家族、学校などでの集団を尊重する在り方は見直しを強いられることでしょう。これは制度的な変更という目に見える形だけに留まらず、思想的・文化的なことにも及び、それは結果として一人ひとりの考え方や行動に影響していくことになります。

1-3.人権や多様性と不登校

さて、話を「不登校」に戻しましょう。私はこのような流れの中で大きく2つの難しさがあると思っています。

1-3-1.子供の「いつ」を尊重するのか

まず1つ目は、「決まりごとを強制すること」と「やりたくないことを無理やりさせる虐待」の区別がつくのかどうかという難しさです。もう少し身近な表現をすると「今やりたくないこと」と「今は大変だけど将来的に意味があること」が同じだった場合に「今の気持ちを尊重するべきか」ということです。

それが子供自身の意思で無理な場合、他者である保護者の意見をどのように伝えるべきでしょうか。もちろんこの場合の模範解答は「じっくり納得してもらえるように話し合うこと」ということになりますが、それがどこまで現実的かが問題です。教育的なスタンスや時間やお金の余裕、現在と未来の社会を繋げられる知識などに加えて、そういったことを受け取ってもらえるような成長や子どもとの関係性などなど。「じっくり話す」ために予め必要なものはたくさんあります。
そういったものがなく、「学校に行くべきなので行きなさい」との働きかけた場合、新しい時代の子どもの権利急進派から「それは虐待である」と糾弾される可能性もあるわけです。そしてそれがSNSなどでも盛り上がったりしたら・・・などと考えてしまうかもしれません。今を必死で生きている善良な人であればあるほど、子供への働きかけ方は難しくなってしまいます。

1-3-2.子供の判断は正しいのか

そしてもう1つは、子供は子供のときに、自分の将来に対して理知的に判断することができるかどうかという難しさです。
勉強とは出来ない自分と向き合い続ける修行のような側面があります。基本的には成長とは労苦を伴うものだからです。もちろん、自然な学び方が身についている人の中には、学習することが「快」であるという育ち方をされている子供たちもいます。しかし、私が出会う多くの人たちにとっての勉強は、課題やテストに追われるものであり「不快」なものだと感じているのではないかと思います。そして、後の章にも関連しますが、日常生活のに転がっている、楽しさや現実逃避などで無限に時間を吸っていくコンテンツがあります。そういった自分を楽にさせてくれる「快」側のものを乗り越えて、「不快」側である修行のような学習(学校)に向かっていくことが、子供自身の意思だけでできるものなのでしょうか。

子供を1人の人間としてその権利を尊重すべき対象であることはもちろんそうでしょう。しかし、子供は子供らしく本能的であるため、視野が狭く知識や知恵などもそこまで多くないため理知的な判断を望むことは難しいでしょう。このように、自分のことを客観的に冷静に見つめた上で決める能力が育つ前に、「学校に行くのか」「学校に行かないのか」の選択をしなければならないような状況が整えられているとも言えます。

それでも今はまだ、「学校は行っておくべきところ」という考え方が優位だと思うので、まずは「学校に行ってみる」というところから始まるかと思います。そして、さまざまな要因のなかで「行かない」選択肢が頭をよぎるようになってきます。もともとあった「行く」理由の中から、新しく「行かない」理由が伸びてきた状態で答えを出そうとするとどうなるでしょう。新しく出てきて新鮮な「行かない」理由を優先するのではないでしょうか。

このような感覚の中、「自分に必要になるだろうからやっぱり行こう」となる子供の成熟度合いはいかほどのものでしょうか。そうなるためには日ごろから「自分の気持ちに従って選択すること」に慣れておく必要があります。日常の細かい選択からキャリアに関わる大きな選択までを自分の意思で選択して責任をとることが当たり前であるという経験です。そういった経験によってさまざまな能力やスタンスなどが身についていきます。しかし、これもこれで「子供を主体として尊重」できるだけの余裕が必要だったりしますし、そういったものが育まれているのであれば、保護者としては「行くも行かないもどちらを選んでも安心」となる境地に居ることでしょう。これもとても皮肉な現実です。

2.大人も信じきれない「べき」論

第1章では社会全体の変化について触れてきました。集団よりも個人を優先していく流れは、西洋的な発展を続けてきた明治時代以降に始まって、高度経済成長「ジャパンアズNo.1」の時代に加速し、バブル崩壊以降の経済的な停滞によって一気に顕在化してきたように思います。
そういった思想的な変化だけではなく、今、人々はとてつもなく大きな変化の時を生きています。それは人類史上3回目とされる大きな変化、「AIやデジタルによる革命」、いわゆる「情報革命」です。これほどまでに大きな構造の変化は、人類史上、「農業革命」と「産業革命」の2つだけだと言われています。

2-1.過去2つの革命「農業革命」と「産業革命」

「農業革命」は、日本で言う縄文時代の後期ぐらい、およそ1万年前ぐらいに起こったとされています。それまでは、狩猟と採集で食べ物を集め、その時々の食料を移動しながら獲得していた時代でした。それが、自分たちで食べ物を育てること(農業)を覚えたことで、定住したり貯蔵したりすることが可能となりました。それによって富を持てる者と持たざる者との格差が生まれ、それが反乱などにもつながりました。
「住所不定」から「定住」へ、「あるものを取る生活」から「育てたものを取る生活」へ。狩猟採集の生き方から農耕牧畜の生き方へと劇的な変化を遂げたことが分かります。

同様に、「産業革命」でも劇的な変化が起こりました。それまでは簡単な道具と手作業による営みが中心でしたが、蒸気機関などの動力の発明によって人の手を使わない生産活動ができるようになりました。大きな機械を動かして大量に同じものを生産するため、人々が同じ時間に工場に集い活動をするようになります。太陽ではなく、時間によって人間がコントロールされる生活が始まりました。工業により交通なども整い、農村が都市に変化していきました。
この頃も「機械によって人の仕事が奪われる」という不安などから機械を打ち壊す運動なども行われました。また、資本主義社会が確立されたこともあり、より格差が開いていくこととなります。

2-2.情報革命でたどり着くのはどんな未来?

そして今は、この2つの革命と同じぐらい大きな時代の変革期です。
ということは、「農業革命」「産業革命」と同じぐらいの大きな変化は訪れるでしょう。革命前後の社会の形は大きく変わるだろうことを意味しますが、どのように変わるのかはまだ見えていません。産業革命時に機械打ちこわし運動(ラッダイト運動)が起こったように、居ても立っても居られないぐらいの不安や混乱が社会を覆うこともあり得ることでしょう。

社会人や保護者など大人であっても、「AIとデジタル」によってこの先、どのような社会が作られていくのかを確信をもって分かる人はほとんどいないでしょう。ということは、子供たちにとってどういう教育の形がベストなのか、「学校に行く方がいいのか」「行かないでもいいのか」、学校教育がその未来にどれほど意味があるのかも分からないでしょう。そして、この技術的な変化の話に、第1章で扱ったような価値観の変化も、その混乱を後押ししていることでしょう。

このように、「未来の社会像」と「学校に行く意味」が迷子になっていることが、さらに学校を「行くべきところ」として推しにくい要因と考えられます。ちゃんと考えようとすればするほど「未来のことは分からない」となりますし、そうなってしまうと「学校は行くべき」理由が組み立てにくくなってしまう皮肉さがここにもあります。

3.都合の良い情報の氾濫

「情報革命」の一部とも言えそうなところですが、1つの章として取り上げるのは「情報の扱い方」についてです。
超情報社会の中では、情報が当たり前のようにそこら中から得られます。本来はその情報を乗りこなすための技能が必要なのですが、今ではその技能より前に、情報を得られるデバイスを手にして使い始めることが多そうです。さらに生成AIを利用すれば「論点ずらし」「言い訳」「ごまかし」「詭弁」などなど、都合のいい武器をあっという間にそろえることができるでしょう。

3-1.膨大な情報を扱うときに気を付けたいこと

まず、気を付けたいこととして、人には「確証バイアス」と言われる心理傾向があるということです。「確証バイアス」とは、自分の意見や先入観と方向性が一致する情報ばかりが目につきやすくなることで、「他にも言ってる人がいるのだから、やっぱり自分の考えは間違っていない」などと自分の意見や先入観が強化されてしまいます。さらには、自分にとって都合の良い証拠や論理だけを意図的に、または無意識的に選別して取り入れて(「チェリー・ピッキング」と言います)、物事を優位に進めてしまいがちです。「嘘は言っていない。言っていないことがあるだけ」という状態です。

例えば「学校なんて意味がない」という先入観(確証バイアス)を持ったとしましょう。自分の考えが合っているかどうかを調べるときに、「学校に意味がないと言っている有名人などの刺激のある意見」ばかりが目に付いて、「学校には意味があるという評価」が目に付きません。その結果、「やっぱり学校行かなくてもいいんだ」という考えが強化され、「自分に都合の良い意見やデータだけをピックアップして、だから学校には意味がないと意見表明する」という感じです。

人にはこういう傾向があることを知らずに情報を集めていると、知らず知らずのうちに「自分が集めた意見は正しい(学校は行く意味がない)」という考えを強化させていくことになるでしょう。そういった傾向にノーガードで流されていくからです。仮に、こういった心理傾向があるということを知ったとしても、うまく改善できるかどうかは未知数ですが、0と1では大きく違うでしょう。

3-2.デジタルデバイスの発展と能力の外部化

こういった傾向が強まる背景には、高度情報化社会のなかで能力がどんどん外部化されていることも関係があるかもしれません。便利とは人間の能力の外部化を意味します。例えば、計算を外部化する装置が計算機ですし、電話番号の記憶の外部化がスマホなどの電話帳です。計算力も記憶力もそういったものが無い時代よりも衰えてるかもしれません。AIの誕生によって、情報を自分の頭で処理する能力も外部化されつつあるのが今の時代です。

AIは様々な意見を収集する際にとても能力を発揮します。その収集されたデータの整合性(正しいものであるかどうか)の確認をする人はどれぐらいいらっしゃるでしょうか。集められた情報をそのまま正しいものであるとして受け取る人も多いでしょう。
今ではあまり見かけなくなりましたが、昔は自動翻訳で面白い間違いがたくさん話題になりました。「よりどりみどり:Yoridori Green」ぐらいならすぐにおかしいと見抜けますが、時間になって閉店したお店の前に「本日は終了しました:Today is over」と貼られていたらどうでしょう。「トイレはきれいに使ってください:Please use the reastroom beautifully」ではどうでしょう。
こういったものも今はかなり自然に翻訳されます。例えば「トイレはきれいに使ってください:Please keep the toilets clean」という具合です。

AIの精度が上がって間違えが少なくなってくると、確認してもほとんど間違いが見当たらないことになります。そうなると検証することに対するコスパは極めて悪くなります。今でもそのまま正しいものとして使っている人が多いことを考えると、ますます人はAIの集めてきた情報をそのまま無思考に受容するでしょう。その延長線に、AIが賛否両論の情報を集めてきたとしても、それらを吟味することなく自分の欲しい意見だけを取り上げるという行為があると考えます。

3-3.「操作能力は早い者勝ち」

この章のまとめとして、「操作能力は早い者勝ち」(『HUNTER×HUNTER』22巻)という言葉を取り上げておきましょう。
「操作能力」とはこの漫画における人間や物品を操る能力のことです。リアルな現実の話で考えるのであれば、ビジネスや人間関係で自分の思った方向に相手を動かすための「心理操作」や、「洗脳」なんていう刺激的なものも「操作能力」と言えると思います。
そして、これは何も他者や物に対してに限ったことではありません。「自己暗示」という言葉もあるように、自分自身を操作することも可能です。

この文脈で言えば「学校に意味がない」という価値観の方向性が先に植えつけられると、「操作能力は早い者勝ち」という観点でもそれを覆すのは難しくなります。それに関連する情報が目につくようになり(カラーバス効果)、さらに確証バイアス✕チェリー・ピッキングによって強化され、さらにはAIが集めてきた自分に都合の良い情報を鵜呑みにするようでは、自分の考え方を修正することがさらに難しくなることでしょう。逆に「学校にも意味はある」と思えば、そういった情報が目に付くようになるわけです。
「全ての人に当てはまる絶対的に正しい答え」は、あればすごく安心できるし良いのでしょうが、現実にはそういったものは存在しないでしょう。不安定ながらバランスの中で生きることを心掛けたいところです。

4.即効性中毒と感覚器官マヒ

資本主義社会の中で、社会はかなり目的的に動くようになっているように思います。それは資本主義社会が利益の最大化を目指しているからで、合理的で計画的に進められてコントロールする領域を広げ続けているからに他なりません。この分かりやすい市場原理に従っていく流れは、本来、資本主義のルールで動くことが難しいとされていたインフラや福祉、教育など行政の分野にもどんどん入ってきています。

4-1.即効性への依存と、惰性のための思考停止

さて、合理的で計画的なものを最も突き詰められるのがデジタル技術でありインターネットなどの仮想空間です。デジタル空間は物理的な制約を受けないため、リアルの物事から比べると圧倒的に早く結果が分かります。今まさにいろいろな方向で開発が進んでは消えてを繰り返してこの領域ですが、この記事のテーマに直接関連するのは、「視覚的聴覚的な刺激や演出によって依存性を高める仕掛け」と「視線・時間を奪い続けるために思考を停止させる仕組み」です。

4-1-1.コスパ・タイパを満たす即効性

「コスパ(コストに対するパフォーマンスの効率)」「タイパ(時間に対するパフォーマンスの効率)」などが当たり前に言われるようになり、「確定的な間違いのない結果に向けて、即効性のある方法」が求められるようになっています。そして、その方法には「視覚的・聴覚的な刺激や演出」によるエンタメ性や分かりやすさが極めて重要な要素となります。

一番分かりやすいのは、ソシャゲに代表されるスマホゲームや、凝った編集をされた動画などを思い浮かべてもらうと分かりやすいと思います。スマホゲームにおけるガチャは、射幸性と言う点でパチンコと同じようなものです。その期待値を上げてのめり込まそうとするようないろんな演出が盛られています。最近では、スマホやコントローラーの振動ともシンクロさせて「触覚」へのアプローチも進んでいます。

教育系の話で言えば、「なぜこのやり方を学校で教えない?」系のすごく一部の問題にしか当てはまらないが「分かりやすい」と思える動画や、学校や個人では難しいぐらいの派手な実験をする動画、知識を面白おかしくいじるエンタメなどなど。それらはしっかり編集されていて、途中の「えーっと・・・」「あのー・・・」などのつなぎ言葉(フィラー)がカットされているのはもちろん、字幕やエフェクトなど飽きさせない工夫が盛り込まれています。
また最近話題の、動画再生における倍速再生なども、「時間当たりの情報量の増大」という見方をすると、情報量という刺激の増大とも言えますし、2倍速によって時間を得した(タイパが高い)行動ができたという高揚感は依存に寄っていく要素とも言えます。

4-1-2.思考停止で行動させ続ける仕組み

一方で、利用者にとってコスパやタイパとは真逆である「視線・時間を奪い続けるために思考を停止させる仕組み」についてです。動画やSNS、ソシャゲのプラットフォーム企業からすれば「視聴人数✕視聴時間」によって広告収入などで稼ぎが出るため、できるだけ離脱させないように、どうしようかなと思わせないようにするための仕組みを作ろうとするのは当然です。

代表的なものはショート動画のスワイプ再生です。こちらは、スワイプする(指をスライドさせる)だけで次々と新しい動画が表示される仕組みですが、従来の動画表示と比べるとその思考の使い方の違いは明らかです。
従来の動画であれば、その動画を見たことがある人にオススメする関連動画がいくつか表示されて、その中で自分の見たいものを選びます。同じ動画見た人がよく見ている動画はその人も興味がある可能性が高いため、継続視聴してくれる期待値が上がります。しかし、利用者はここで、自分はどの動画を見るべきなのかを一度自分と対話したうえで、次の動画を表示させることになります。深い思考とは言えないですが、少なくとも自分と向き合う瞬間があります。

しかし、スワイプ再生は、表示された動画が自分の気分に合うかどうかだけ、を永遠と受け身で指を流すのみとなります。これが「思考を停止させる仕組み」です。複数の中から吟味するということをさせずに、次に表示された1つのものが今の自分の気分かどうかと照らし合わせるだけなのです。
また、各種SNSや検索結果の画面で使われている「無限スクロール」も同様の効果です。次の検索結果を表示させるかどうかをクリック(タップ)で意思表示させるということを省き、永遠と新しい投稿や記事が無思考で表示されていきます。このように、いかに頭を使うことをさせない(止め時を作らせない)かという仕組みづくりが、世界中の大人たちが知恵を絞って作り上げていっています。

4-2.地味で地道な学校教育とズレたデジタル化

ここまで書いてきて分かるとおり、学校教育との相性はとことん悪いです。
アナログをメインに地味で地道に一斉学習を進めていくスタイルは、刺激に慣れ過ぎた子供たちにとっては退屈以外の何物でもなく、自分の頭で考える機会が削られている子供たちにとっては早く終わってほしい苦行でしかないと感じても不思議ではありません。

また、タブレット学習なるものが始まっていますが、それによる学習刺激が、ゲームや動画などエンタメの刺激を上回ることは難しいでしょうし、なまじタブレットを使うことで「好きな動画やゲーム」を連想させるために、余計に学習に向けないこともあるでしょう。
そして、個人の感想としてもう1つ添えさせてもらえるなら、自分の頭を整理するのにアナログのフリーハンドさは、デジタルの便利さを凌駕します。デジタルはあくまで目的的なことにかなりの強さを発揮するものです。自分の頭でまとまっていない状態であるときや、何を目的にするでもないことなどをあれこれ考えるときなどはアナログにも輝ける分野はたくさん残っているように思います。そして、究極的には目的的に能力をいくら磨こうとも、AIには敵わないのです。

これらデジタル技術による「過度な刺激」や「思考停止」は、「製作者側が作ったものを受け取る」ということに特化して効果を発揮するといった点が重要でしょう。「決められたカリキュラムの進捗を進める」「定められた学習内容を理解度を測定する」「希望する進路に進めるかどうかの確率を知る」などなど、目的がはっきり決まっている場合は、デジタルは良さを存分に発揮することができます。何でもかんでもデジタルに、タブレット使うことがデジタル、みたいな考え方ではなく、デジタルのメリット・デメリットをしっかり認識したうえで利用することがよいでしょう。

この章の最後に、この文脈に合うデジタルのデメリットを挙げておきます。例えば、より分かりやすい動画によっての学びは、その分かりやすさの完成度が高ければ高いほど、自分で考える余地が奪われるということです。そのことにも関連しますが、「学習を通して人間的な成長を見込む」「受け取ったものから何かを生み出そうとする」「新たな疑問を自分で解決しようとする」などなど、ゴールが見えていない・はっきり決められない場合は、ゆっくりアナログ的な関わりの方が重要になるでしょう。もちろんAIに聞けばそれらしい答えは得られるでしょうが、自分で考えること自体に意味があるような領域もあるということです。ここにもそれに向き合うための余裕が必要になりますね。

5.”それなり“がタダで手に入っている現実

日本は高度経済成長期を経て「一億総中流」と言われるぐらいの豊かさを手に入れました。その後バブル崩壊を経て、「高価格・高品質」を求める傾向から「低価格・高コスパ」が求められるようになりました。その市場の要求に応えるべくファストファッションや百均などの安価な商品が世の中に並ぶようになりました。また、スマホの所持率は小学生4~6年で66.7%、中学生で89.1%、高校生が98.3%程度となっています(子ども家庭庁 令和6年度 青少年のインターネット利用環境実態調査)。

5-1.経済的な状況は厳しくなりつつも

「それなり」とは「どれなり」なのかという程度の問題はありますし、生活が厳しい状態の方々もたくさんいらっしゃることも知っています。すべての個別具体的なケースをすべて拾って話をしていくことはできませんが、全体として「こどもの相対的貧困率が2012年の16.3%から2021年11.5%と、2012年以降で下がってきている(2018年から調査基準の変更あり)」(国民生活基礎調査より)ことと、「低価格・高コスパ」商品の活用できること、児童生徒のスマホの所持率が高い事などを考えると、「それなり」は維持できると見て話を進めたいと思います。

ただし、あくまで今の時点ではぎりぎり「それなり」といった感じだと思っています。それは、このこども世帯の貧困率が下がっている要因は、保護者の収入アップが理由に他ならないからです。社会保障や児童手当の給付額は低下しています(三菱UFJリサーチ&コンサルティング「「子どもの貧困率」はなぜ下がっているのか?-統計的要因分析-」)。
保護者の収入が上がっているなら良いとも見れますが、じっくり子供と向き合う「余裕」を削っているとも見れます。さらに、今後のことを考えると、税金や社会保険料の負担増、インフラ設備の老朽化、コストプッシュによる物価高など、それなりの生活を維持する難度は上がっていくでしょう)。

このような社会経済の状況ではありますが、保護者のもと暮らしている20歳以下の人たちでそれなりの衣食住を手に入れられ、その手にはスマホやゲーム機などの娯楽に通じるものもあることでしょう。また、スマホなどのデジタルデバイスを持っているということは、SNSなどを通して、共通の趣味を持っている人達とのつながりをつくることができます。これによって衣食住と娯楽と友人関係がある程度満たすことができます。

5-2.「ノーリスク、そこそこリターン」の誘惑

そして、この「ある程度満たされる状態」が本人の努力ではなく初めから整っているということがポイントです。それはすなわち、本人は何もしなくてもその状態を享受できるということです。本人の視点からは「ノーリスク、そこそこリターン」です(もちろん将来的な潜在リスクを感じている人も多そうですが、しんどくなるとそんな先のことまで意識が働かなくなるものです)。

こうなると次の一歩としては、「ノーリスク、そこそこリターン」と「リスクオンして、さらなるリターン」の択を迫られることになります。
もし、さらなるリターンまでたどり着ける自信がない、自力でリターンを得られた経験がない場合、どちらを選ぶでしょうか。ここでは4章で触れたような現代の時代性もネックになってきます。「タイパ・コスパ」を求める時代であり、それを突き詰めた結果「確実性の担保」が必要な時代となってきています。「リスクが増えるなら、効率良く(苦労なくすぐに)リターンは上がってもらわないと」「リターンまでたどり着ける確実性が無いならやりたくない」という思考になりやすい状況が整っています。

「何もしないでもそれなりの生きて、ある程度満たされているこの日々が、できるだけ長く続くことを祈って過ごす」か、「失敗するリスクや分からない不安がある中、しんどい思いをすることを覚悟して、何が変わるかも分からない成長を目指す」か。見えているものにしか価値を見出せないのであれば、「+αで頑張って努力する意味」を見出すことは難しいでしょう。
ここにも「失敗してもいいという余裕」、失敗したことから得られる経験値、など見えないものに踏み出すための「余裕」が必要となってきます。

まとめ.

これまで見てきたことを一言でまとめるなら「大人が抱く将来への不安のなか、準備不足(経験的に・年齢的に)の子供たちに、学校行くか行かないかの選択を任せ始めている」ということになるでしょうか。そして、社会的な要因がそれぞれ絡まって「不登校が増える」という状態が現れていると言えそうです。そして、その状況から次に進むためには「不確実なものに向かっていくための余裕」がポイントとして出てきました。

これまでの「当たり前」を当たり前に受けて育ってきた大人たちにとって今の状況は、当たり前が通じず、現在も時々刻々と変わっていき、未来のかたちも読めないというとても難しい立ち位置です。そうした中でも「大人として」「子供のために」という思いから、ある人は「大人然とした、毅然とした態度で、”すべき”を強制」したかもしれませんし、またある人は「できるだけ失敗させないようなアドバイスで進路を整地」したかもしれません。どちらも全く違ったアプローチですが、そのどちらにもないのが「失敗してもいいという余裕」です。

時代の変わり目で、今までの考え方や価値観ではうまくいかないことが増えてくると、不安からますます安定したものを求めようとするのは人間として自然な流れです。そこをさらに「見えないものを信じて進みましょう」というのですから、これはなかなかに酷な話です。情報革命によっていろんなものが管理しやすくなり、答えらしきものが簡単に手に入るようになっているためなおさらです。

それでも、今の流れの中においては「安心の先には衰退があり、失敗の先には成功がある」のような「急がば回れ」的な考え方が、なお大事になってきます。さて、果たして、その非効率さや不確実さを受け止めるだけの「余裕」が社会や個人に残っているのかどうか。大人も子供も大きな視点で未来に希望を持ちつつ進んでいきたいものです。

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