逃げてもいいのか 心をいつ鍛えるべきなのか

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「逃げてもいい」について

「逃げてもいいんだよ」という言葉は、ここ10数年でかなり浸透しているように思います。

漫画であれば
『鬼滅の刃』の桑島慈悟郎「泣いていい 逃げてもいい ただ諦めるな」(2016年)
とか
『銀の匙 Silver Spoon』の校長先生「生きるための逃げは有りです。有り有りです。逃げ道の無い経済動物と君達は違うんですから。」(2012年)
とかが思いつきます。
(※個人的に『銀の匙』は好きな作品です。末尾にもリンクを)

「逃げてもいい」は、「死ぬぐらいなら、逃げてもいい。その場所から離れることは悪い事ではない」的な意味合いで使われ始めたわけです。先の引用でも「諦めるな」や「生きるための逃げ」など、未来に繋がるような一手としての「逃げ」を促すものです。(桑島慈悟郎は「痛くても苦しくても楽な方へ逃げるな」とも言っています)

それがいつからか「逃げてもいい」だけが独り歩きして、さらに「(ちょっとでもしんどい、嫌だと思ったら)逃げてもいいじゃない。(我慢する必要なんてない)」のような軽いニュアンスで使われることになっていきました。

安きに流れるのは人の真理ですし、未成年だと尚更です。なのでまぁそうなっていくのは当然ではあります。
それに加えて、社会にも鬱憤が溜まっていたのかもしれません。昔から優勢であった「一度やり始めたらやり遂げるべき」とか「最後まで耐え抜くのが美徳」のような正論に苦しめられた経験の蓄積です。世の中がこれほど効率を求めてきていることも重なり、そのカウンターとして「我慢してやる必要なんてない」という意見が広まりやすい環境になっていたとも言えます。「石の上にも三年」という古くからある諺さえも否定される的になっているわけなのでなおさらです。

ちなみに、「逃げてもいい」側の古くからの考え方に「逃げるが勝ち」という言葉があります。こちらは「争わないで相手に勝ちを譲るほうが、大局的に見れば得策である(小学館 デジタル大辞泉)」という意味です。逃げた結果、全体の状況が良くなるなら、という前提が付きます。やはり、軽々に「しんどいなー」「めんどいなー」で逃げることを推奨する言葉ではなさそうです。(そして、「逃げてもいい」と同じ「逃げる」肯定の方向なのですが、全然聞かれないのもなかなか味わい深いですね)

「逃げてもいい」をもう少し細かく

ここまで、「逃げてもいい」という言葉そのものについて見てきました。
もうこれでお腹いっぱいまであるのですが、もう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。
「逃げてもいい」という言葉は、「やり遂げる」「最後まで」など終わりの部分、「続ける」か「止めるか」だけが注目されがちですが、私はそれよりも「一度やり始めたら・・・」という始め方に注目すべきだと思っています。

それは「自分の意思で始めたかどうか」が大事だということです。
もちろん「何が自分の意思なのか」というのは、とても難しい問題なので、これはこれで一筋縄ではいかないことなのですが、逆に言えば、「そういうものだから」「当たり前だから」「決まっていることだから」などと、私の意思とは無関係の流れで決められたものかどうかです。

自分の意思ではなく決められた方向に歩を進めさせられることはたくさんあります。しかし、こちら(↓)でも書きましたが、世の中は大変革の最中です。これまでの当たり前が通用しにくい状況になってきています。仮に、何とか言いくるめて「世の中の当たり前」に押し出して始めさせたとしても、やめるべき言い訳はいくらでも考えられる時代になっています(良くも悪くも)。
そのような時代に、「やり遂げる」「最後までやる」ことだけに注目することはあまり良い結果をもたらしません。

そんな時代だからこそ「本当にあなたの意思で選んだ道かどうか」が重要です。
それまでの人生で楽しんで夢中になった経験、追い込まれて考えさせられた経験などなど、いろんな経験をしていると思います。その経験の蓄積で自分ができています。どういう経緯だとしても、選択を迫られたときに自分で考えた結果「私はその道を進んでみよう」と決めたかどうかが大事だということです。
そうやって選んだ道であれば、「逃げる」か「続ける」か以外にもたくさんの選択肢が見つかるでしょうし、その道を進んだ経験はきっと良き成長につながることでしょう。それは、その道を進み切った場合も、進み切れなかった場合にも同様です。

その前提をすっ飛ばして、何かの都合に従わせるために「最後まで頑張りなさい」「これぐらいできなければ何もできないぞ」「他の人もやってるから」「あなたもやるって言ったでしょう」などと声をかけても追い込むことにしかなりません。そして追い込まれた人は、たとえその道の最後まで進めたとしても学べるものは少ないでしょう。形だけ整えることを覚えてしまうだけです。

とはいえ、“自分の意思で出した答え”とは何かを考えると、とても難しい話になっていきます。それゆえに、自分自身とじっくり対話することが必須ですし、周りの人たちともさまざまな意見を交わす必要があります。ですが、今の世の中にそこまでの余裕を持った保護者、教育者がどこにいるのかも難しいですし、これほど情報コンテンツに囲まれる中で自分自身と向き合うこともとても難しい問題です。

そんな中で、保護者側がなんとか「本人に決めてもらった」と状態に持っていったと思っていても、本人側が「決めさせられた」と思っているケースなども多々あり、そうなると難しさにもうひと捻りが加わります。本人の認知や追い込まれた時の思考のクセによるものとは言えますが、それをケアするのはさらに長期的な余裕が必要です。

逃げてもいいのかダメなのか

ともかく「逃げてもいい」にも、「一度やり始めたらやり遂げるべき」とか「最後まで耐え抜くのが美徳」などにもそれぞれに正しさはあります。それが無いなら、わざわざ考えるべきテーマにもなっていないでしょう。そのため、この問いに「良い!」「だめ!」みたいな単純な紋切り型の答えはありません。というか、「人間の内面に関わるお題に唯一解はない」というのが唯一の答えです。なので、そういうものに頼るクセを付けないようにすることは大事です。分かりやすい答えが無いことは効率が悪く見えるでしょうが、周りまわって自分を強く育て、大器晩成な成果が得られるはずです。「コストとリターンは等価交換」は世の真理です。

さてさて、前章で「自分で決めたのなら進む」「そうでないなら逃げるのもあり」というような話をしました。とはいえ、「自分で決めた道なら何が何でも進むべき。それで死ねたら本望でしょう」なんてことは言える時代ではありません。
そもそも、「自分で決める」とは何なのでしょうか。あなたの意見はあなた以外のさまざまなものの影響を受けているのですから「100%自分のオリジナルな独自の意見だけで決める」なんてことは本来あり得ないことです。
であれば、「自分で決めたのなら進む」というのはその前提から成り立たない考えということになってしまいます。ということは、進む道をどう選んだかだけで、逃げてもいいのかダメなのかを決めることは難しいでしょう。

道を選択する私と私が生きる世界

ということは今度は「どう選んだ道なのか」ではなく「その道を進む私の状態」について考えてみたいと思います。

まず、一番初めに引用したセリフのような「生きるための逃げ」「逃げてもいい ただ諦めるな」のような逃げは私も全面的に賛成です。今のどうしようもない状況など色々考えた末の「未来を選び取るための逃げ」だからです。
なので、それらの逃げは「まぁ何となくダルいから辞めとこ」とか「思ったのと違うなー他に自分に合ったものはないかなぁー」的なかるーい感じの逃げではありません。そういった軽いノリでの逃げには、本人の意思が感じられず、逃げのための逃げとしか見えないため、なかなか許容されないことも多いでしょう。(もちろんそれが必要な状況もありますが。。)

ただ、このあたりの「軽さ」がどの程度のものなのかはその人本人にしか分かりません。
都合の良い情報をいつでもつかめる時代です。攻めも守りも簡単に理論武装することができます。同じように「あるべき」正論もあふれていますので、しんどいも不安も表現することが難しくなっています。
もしかしたら、軽くない状態であっても、いろんな思惑のなかで表現だけは軽いものになってしまっている、なんてことも普通にあります。むしろそう表現することに慣れ過ぎて、本人さえも今の自分の状態が分からなくなっていることもあります。そう思う一方で、ただただ軽いノリでしかないことも普通にあります。いずれにしても、他人が言葉を通じてその人の状態をつかむことは、様々なノイズのために非常に難しいものです。

そうなると結局、何事も自分次第ということになります。自分を飾れる、良く見せられる情報で表面を着飾って逃げるのも良し、そういう情報に踊らされないで地道にひたむきに頑張り続けるのも良し、です。その結果、今の自由や情報を良い方向に使う判断をして、自分を律した人だけはどんどん先に進め、そうでない人は一発逆転の角度を探し回ったり、永遠言い訳や自堕落を繰り返していくことになります。それもこれも自由な中の「自分の判断」であり「自己責任」というわけです。今の社会に溢れる“残酷な優しさ”の一端です。

このような社会を前提に「逃げる」かどうかの基準を考えていきます。大雑把には下記の3つの方向があるかと思います。

  • ①生きるか死ぬかのレベルなら、速攻で逃げの一手を打つべし。
  • ②しんどい状況であるなら、悩みどころ。
  • ③めんどうの類なら、もうちょい頑張りたいところ。

①と③はほとんど答え出てるようなものです。
①は「逃げてもいい」の元祖そのまま「死ぬぐらいなら逃げてもいい」なので、逃げても良いでしょう。そもそもそのレベルまで頑張り続けていた何かしらがあるはずですが、「逃げる」方向の選択肢が頭によぎっている以上は、自分の意識を確かめるためにも「逃げ」であれ「休み」であれどうであれ一度そこから距離を取ることをお勧めします。
③は、「もし、どちらの道を行くか迷ったら、必ず困難な方の道を選べ」(岡本太郎)という言葉で表されている状態です。「めんどうだなーやろうかなーやりたくないなー」みたいな感じなら、「やりたくない道(もう少し頑張る道)」を選べということです。もう少し続けてみて、先に進んで、景色が変わって、そこでどうするかを改めて考えてみることをお勧めします。

ということで、悩みどころは②。
「しんどい状況」を耐えた方が良いかどうかは難しいため、しっかり触れておきましょう。

「しんどい」とは

まず、この“しんどい”はがっつり主観によるものです。
同じ負荷でも、人の能力や感情によってその大きさがむちゃくちゃ変わります。
人によっては「むちゃくちゃしんどい」と思うようなことでも、別の人にとっては楽しんで処理していくこともたくさんあります。
そのため、「しんどさ」をどう捉えるのかはとても重要なポイントです。

(1)まずは「しんどさ」に気づくかどうか

例えば、自分であれこれ頑張っている時に、他者から「しんどいんじゃない?」と言われて、「なるほど確かにしんどいかも」から、「しんどくなってきた」みたいなことは良く起こります。「しんどい」と思い始めたら、何かしらしんどいものを集めてしまうのが人間の性質です。言葉一つで認識が結構変わってしまうぐらい単純な一面もあるのです。

また、「自分はしんどいのか?」となったとして、そこから「しんどいと思っている自分」になるのか「あーでもそんなことないかもと思い直す自分」になるのかは、その人次第とも言えます。
さらに、「しんどくない」を再認識することが頑張れる人もいれば、「しんどい」に飲まれてどんどんできなくなる人もいれば、「しんどいけどしゃーなしがんばろかー」と進む人もいます。それぞれの「しんどい」をどう扱うのかもまたその人次第となります。

(2)そんな「しんどい」に対して、どのような心持ちで向かうのか

「しんどい」は「良く無いもの・避けるべきもの」と捉えるのか、あるいは成長の機会など「良いもの」として捉えるのか。どちらの感覚で「しんどい」に触れるかによって、心への負担は圧倒的に変わります。それは次のような話が似ているでしょう。

ある人が朝起きてみると全身が痛いことに気付きます。もし「筋肉痛」という概念を知らない人であればその人は「自分はどうなってしまったのだろうか」「一生このままなのか」などと不安に苛まれて落ち込んでいくかもしれません。一方、「筋肉痛」を知っていれば、「昨日結構動いたからなー。これで筋肉はまた成長するはず」と前向きに捉えられることでしょう。

「しんどい」とはどういったものなのか。そしてそれを今は避けるべきなのか、受けるべきなのかを選択しなければなりません。基本的には「自分の成長に繋がるもの」であれば一旦受け入れる選択をするのが良いでしょうし、「自分にはどうしようもできないものが自分を責めてくる」のであれば避けることも選択肢になると思います。
避けられる時間や場所などがあるかどうかもその先に重要になりますが、一旦はここまでです。

蛇足ですが、

これまでの話から、
「しんどい」への耐性は、「ポジティブで、向上心があり、達成感を感じた経験がある」と高くなりやすく、逆に「ネガティブで、自己肯定感が低く、いろんな経験が乏しい」と低くなりやすいような気がします。「しんどい」への耐性が無ければ、「しんどい」がどんどん膨らみやすく、動けないことがクセづいてしまうことになります。これをそのままにしておくと、「できる人(耐性がある人)はどんどんでき、できない人(耐性が低い人)はどんどん置いていかれる」という、個人の思考によって格差が生まれていってしまいます。目に見えない個人の内面によって格差が生まれるのは、先の「社会の“残酷な優しさ”による成長」の格差と似ています。

そのため、「ネガティブで、自己肯定感が低い」人に対しては、様々な角度の前向きな言葉がけと、それによる多様な経験が得られるような環境が大事になってきます。しかし、そういった人達への対応は、扱いが繊細で、細やかで長期間のフォローを必要とし、ともに悩むことも多く、その上成果も上がりにくいと言えます。「ポジティブで、向上心がある」人と関わった方が、困りごとも少なく成果も上がりやすいため、多くの商業的に上手くやろうとする人たちは、選別したり自然淘汰させたりして、そちらだけを対象としていくのは当然の流れだと言えるでしょう。

「学校から逃げる」について

ということで、「逃げてもいいんだよ」の良くある場面として、学校に行かないことを考えてみたいと思います。(↑でリンク張った記事とも強く関連しています)

機会の宝庫である学校

先ほどの蛇足で触れた、人の成長に必要な「多様な経験」は学校が積むのが手っ取り早いです。なんせ、教科の勉強の他、学校行事や部活動などさまざまなメニューが揃っているだけでなく、同級生はもちろん先生・先輩・後輩・OB/OGなどの人間関係の種類や数も多いです。いろいろな人間関係から生まれるさまざまイベントでの経験以上の多様な経験を積むことは簡単ではありません。
さらに、それらは原則公金(税金)で賄われているためほぼ無料で当たり前のように利用できます。(そのためそのありがたみにも気づきにくい部分もあります)。なので、うまく使えるととても良い感じに成長できる可能性を秘めているものです。

また、メニューが多い、関わる人間が多いことも基本は有利な方向に働きます。
例えば、人間には誰しも得手不得手がありますので、メニューが多いということは単純に自分の得意なものに当たる確率が上がるという意味で有利ですし、また、何か失敗したとしてもリカバリーの機会も多いことを意味します。ただ、1つ1つの失敗やその追い打ちによってバキボキに折れてしまったり、周りからの評価を気にしすぎてしまったりすると、次の機会に挑戦できなくなってしまう可能性は上がってしまいます。

関わる人間の多さについては、それぞれの人たちがいろんな見方や感性を持っていますので新たな気づきや立ち直るきっかけを与えてくれることになるでしょう。さらに、基本的に人はサボりたい生き物だから他者の目があることは自分を律する方向にも働きます。
ただし、流されやすい生き物でもあるので所属する集団や付き合う相手の状態によってはマイナスの影響を強く受けてしまうかもしれませんし、いろんな見方や感性が自分を責める方向で働く可能性もあります。また、社会の変化によって兄弟姉妹も地域社会の関わりも減っているご時世ですので、学校という多くの人がいる集団に入って、関わる人数が一気に増えることによる混乱もあるかもしれません。

「リスクやコストと、リターンは等価交換」も世の中の真理です。それは学校での学びや経験も同じです。学校で出会う人達にもいろんな人がいます。その人達と多くの機会を通して揺れ動く人間関係をバランス良くで進めていくのは確かに難しいでしょう。だからこそ、人に揉まれていろんな経験を積んでいれば、「ネガティブで、自己肯定感が低い」人も、いろんな見方を身に付けて前に進む処世術を備えられる可能性もあるわけです。

逃げた先でどうするかだけの問題

という感じで、「学校って結構コスパ良く経験値を積めるところなのかも」ということを見てきました。
それだったら学校に行っておいた方が良いのか!行けてないのはまずいのではないか!という感情が盛り上がってきてしまうかもしれません。

魅力薄まる学歴屋さん

しかし、先ほど述べたように「リスクやコストと、リターンは等価交換」です。そして35万人を超える小中学生が不登校を選択している状況を見ると、今の時代を生きる子供たちにとって学校に通うことの「リスクやコスト」が「リターン」を上回っているように捉えているのかもしれません。(不登校の最新の数値は10月末頃に出るかと思います)

その一つの見方として、学校がどんどん「学歴屋さん」になってしまっている側面があります。
小学校・中学校は1日も通わなくてもそのまま「卒業」できますし、通信制高校のなかには「高卒学歴」を与えるだけの場所と揶揄されるところも結構あります。通信制高校は、レポートとスクーリングとテストによって単位が認定されますが、誰がやったか分からないレポート、さまざまな救済方法が用意されているスクーリングやテストなどで単位が認定された話などを聞いていると、確かに「学歴屋さん」と言われてもおかしくないのかもしれません。
また通信制高校だけではなく、いわゆる教育困難校とか低学力校とか言われる全日制の学校でも同じように、実際の学力はともかく「高卒学歴」を持って卒業してもらうために工夫を凝らしています。いずれにしても「学歴屋さん」であることを期待されるということは、「それ以外の行事は全て無駄」という価値観に寄っていきますから、「学校」とは何をするところなのかを改めて考えて、割り切るなり学校としての価値を残すなりしていかなくてはなりません。
(個人的には、小学校や中学校とは何かという再定義も必要だと思いますし、全高校生に「高卒認定試験」の受験してもらうことも一手だと思っていますが、この辺の話はまた別の機会に)

ただ、学校だろうがそうでなかろうが、小中高大時代の目的が「生きていく術や能力を得る」ということであるとすれば、学校外でもその術や能力は得られます。学校で積める経験もあれば、学校外で積める経験もあるということです。

学校外で成長する道

学校外でさまざまな経験を経て生きていく術や能力を得るとはどういう感じでできるのでしょうか。

例えば、「学校がツラくてどうしても行けない。学校に行けないこの状態も辛い」と八方ふさがりで不登校になったとします。そして、そのつらさから逃れるためか、楽しみで心を回復させるためか、絵を描くことにのめり込んだとしましょう。(これはゲームでも動画でも何でも大丈夫です)
とりあえずスタートした「お絵かき」だったのですが、いろいろ書いているうちに「もっとうまくなりたい」とか「オリジナルのキャラで物語を作っていきたい」とか前向きな気持ちが出てきました。その気持ちが大きくなって、描くための新しい技術を学んだり、物語の作り方を調べたりなど自分からさらに動き出すことになりました。

さらに、「絵を描く」ことを続けてオンライン上で横のつながりができることもありますし、絵を習いに行くことで縦のつながりができるかもしれません。自分の作品ページを運用するかもしれませんし、コンペに応募することもあるかもしれません。イラスト関係のイベントに足を運ぶこともあるでしょう。
業界のことを知って自信がついたら、ランサーズやクラウドワークスのようなクラウドソーシングサービスから仕事を受けるかもしれませんし、BOOTHやココナラなどのサイトで販売や依頼を受けるようなことがあるかもしれません。

こんな感じで逃避から受容、そして能動へと気持ちが動き、その気持ちが具体的な動きに繋がることは珍しい事ではありません。そして、その時々の動きはどれも訓練を経て成長の機会となっていきます。
このように少しずつ経験しながら、技術・能力を身に付けていくことは、生きていく術や技術を身に付けることと同義です。都会では都会の、地方では地方の、オンラインではオンラインの、それぞれのフィールドで特徴の違いやメリットデメリットはありますが、その場に応じて、経験を積んでいくことは不可能ではありません。

このように、学校であろうと学校外であろうと、自分を成長させる機会を持てるのであれば、どっちだから正解・不正解ということはないのです。

心を鍛えるとき

個人的な持論ですが、「心が鍛えられる」のは「労苦とともにある」だと思っています。なので、成長するためにどこかで「労」や「苦」を経る必要があります。適切な労苦であることが一番ですが、この世はとても複雑ですし、この“適切”というのもその塩梅がとても難しいものです。

勉強で鍛えられる心

もちろん、勉強でも心は鍛えられます。
勉強とは、「“できない自分”と永遠と出会う作業」とも言えるからです。

例えば、とある単元を勉強して理解できるようになったとしても、次の単元に進むとまた分からない領域に出会います。そのまま頑張って理解できて、次に進むとまた分かりません。そして、分からなくなった状態で、前まで分かっていた単元に戻ってみてもそれすらよく分からないようになってしまっていることはよくあります。
暗記の分野でも、何度も覚えたはずなのにすぐに忘れてしまう。あと何回覚え直したらいいのか、と自分の能力を疑ってしまうこともあるでしょう。そのうち、覚え直すのが無意味な作業に思えてきたりして、暗記する努力から遠ざかっていくこともよくあります。
勉強することそのものについても同様です。今度はちゃんと勉強しようと意気込んだとしても、もうその日のうちに勉強が続かない自分に出会ってしまうこともしばしばです。

そういったものを繰り返して学びは進んでいくのですが、3歩進んで2歩下がった状態だとしても、1歩進んでいる事実よりも2歩下がってしまったことに意識が向きやすいのが人間です。コスパとかタイパとか効率至上主義のような雰囲気の今の環境ではなおさらでしょう。そうしているうちに、やる気などが削られて意識が勉強に向かなくなっていくこともよくある話です。

また、その勉強に向かう行動そのものからも「自分がいかにできない人間なのか」も見せつけられます。
「やろうと思ったけど続かない」「やろうと思ったけどできなかった」「すぐに楽な方に楽しい方に流されてしまう」などなど。そんなことは日常茶飯事でしょう。
こういった自分の弱さと出会い、認め、受け入れつつ、そこからどうしていけるのかを試行錯誤しなければなりません。その過程でいろんな負担や苦しみを知って、心は成長していくのです。

心を鍛えさせない勉強

一方で、今は「楽しさ」「親しさ」「分かりやすさ」などポップなものがもてはやされる時代でもあります。

そのため、参考書や問題集などの教材も、カラーであったり、イラストが使われていたり、話し言葉であったりと読みやすさの工夫はされています。数十年前の武骨な参考書と比べると違いは明らかです。とても勉強しやすくなったと思います。それだけでなく、アナログ・デジタル問わずゲーム性を高めた教材など「楽しみながら学べる」教材も多く開発されています。(この記事でちょっとだけ触れています↓)

そういった教材でも、定期テストの点数や成績、進路確保などには効果があるでしょう。また、勉強習慣なども楽しみながら獲得することができるかもしれません。
ただ、「楽しいから」というモチベーションだけとなると、自分自身と向き合って内面の成長を促すような働きは薄いのではないかと考えています。できるだけ心がしんどくならないように学習を進めることを目的としている教材なので「できなさ」「しんどさ」「葛藤」などと出会わないようにしているわけなので当然と言えば当然ですし、必ず勉強で心を鍛えなければならない、というわけでもありません。別のところで精神的成長に励むのかを考えればよいのです。

勉強はどちらかというと「勉強はしておくべきもの」という義務的な考えの人が多いので、勉強内容を身に付けるだけでも大変です。そこに追加で精神修行を望むことは難しいかもしれません。そもそも「しなければならない」という強制力に対して精神を消費している可能性は高く、その消費した状態で「できない自分」に向き合わなければならないことになるからです。しかも、勉強内容が主目的であるため、精神修行は予期せぬ形で付き合わされることにもなります。

勉強以外でも鍛えられる心

そうなると、「しなければならない」を迎え撃つよりは、「したい」「なりたい」などを追いかけているときに、試行錯誤して心が強くなる経験を積んでいく方が良いかもしれません。

先の「描いた絵を動かしたい」もそうですし、「ヘッドショ決めれるようになりたい(ゲーム)」、「難関資格を取りたい(勉強)」、「こういう技を使いたい(格闘技)」「身体を自在に動かしたい(スポーツ)」、「もっと時給上げたい、稼ぎたい(バイト)」などなど。こういった自分の「なりたい」「ありたい」を追いながら、その途中で「分からない」「難しい」と出会いながら、内面的な成長を図るという訳です。勉強以外の動きの中で、できない自分に出会う機会を作っていくことでも心は鍛えられていきます。
もちろん同じように、勉強の延長線上の「〇〇大学に合格したい」とかもそうでしょう。純粋な「したい」の場合もありますが、「馬鹿にされたのを見返したい(から勉強を頑張る)」とか大元の動機は何であれ良いと思います。

能動的に訓練に向かうこと

勉強でも勉強以外でも、「新しい事」や「できなかった事」ができるようになるには訓練が必要ですし、訓練の労苦は人を成長させます。そして、訓練を全うするにはある程度の心身の健康や能力、希望、欲求などが必要です。

身体にしても能力にしても精神にしても、いずれかの成長によってそれらの形は変わります。伸ばすにしても押し込むにしても、今ある形からは変化・変形は避けられません。身体の柔軟性を上げることをイメージすると痛みを伴うことは理解しやすいでしょう。もちろん筋肉痛とか成長痛でも構いません。ともかく、成長のために労苦はほとんどの場合でついてくるものだと思われます。

そうなると、成長に必要な労苦を乗り越えるためには一体どのくらい回復していればよいのか、という問題に当たります。しかしこれもまた「絶対的な正解はない」ということになります。
人によって回復の度合いやそこまでの期間も、どうなったら回復とみなすのかは当然異なります。そして、同じような回復度合いであっても、どのくらいの労苦を乗り越えられるのかも同様に人によって違います。「しんどい」のときと同じように、その労苦をどういうものだとして受け取るかは主観的で本人次第です。

この場合のように、「したい」「なりたい」という能動的な気持ちからの行動・訓練なので、その労苦も成長に繋がるポジティブなものとして受け取れる可能性は上がるでしょう。失敗したときもそれもまた経験と思えるような考え方や周りの環境が整っていればなおさらです。上手くデザインしてもらえる人や場所との出会いがあると劇的に成長することもあります。

さらに蛇足ですが。。

よく「心を回復させるために好きに過ごすことをさせてあげてください」というアドバイスを受けた話を聞きます。それを信じて数年そのまま過ごした結果、もう一度その人に相談すると「どうしてこんなにひどくなるまでそのままにしておいたのか」とか言われたという話です。

もちろん、ベースの心を回復するための心行くまで自由に過ごしてもらう期間も必要です。しかし、その期間の終わりがはっきりくっきりあるわけではありません。
そしてその期間の後に、刺激やストレスの小さいものから少しずつ提案する時期に移らなければなりません。その受け入れられた提案を過ごしていく中で自分自身への理解が進み、ポジティブな感情や欲求が生まれ、それに向かって自分で行動できるという段階に進んでいきます。ただ、それらも自走してくれるとは限りませんから、折を見て適切な角度で促していく必要があります。

という理想モデルを書いてみましたが、「これは人間に可能なのか」という気持ちになっていきますし、実際多くはそんなにスムーズにいくものではありません。進んだと思ったら戻っているし、やり始めたと思ったらまたやらなくなった、みたいなことの繰り返しです。期待しすぎると期待した側が傷つき、その傷つきが本人への当たりを強くして、結果余計にこじれていくこともあります。

どの時期にも共通して大事だと思うのは、その人とゆっくり話すことです。お互いの関係性にもよりますが「相手を信じて、相手の味方であることが伝わるようなコミュニケーション」を積み重ねていかなくてはなりません。ただ、現在のこの余裕を削ることを是とする社会には、このコストが圧倒的な関わりをするのはなかなか厳しい課題です。長らくそういう価値観がもてはやされているので「余裕を削る、無駄を削ることこそ正義。なのになんでちゃんとしないんだ」みたいな関わりしかできなくなっている方もいます。なんせ余裕のなさは言葉の棘になりますし、その棘を敏感に感じ取ってしまうのが心が疲れて傷ついている人ですから、距離が取れれば良いのですが、いろんな制約があり難しさも溢れます。

無責任な言葉と折れた心

「生きる死ぬの段階ならすぐに逃げろ」なのですが、こちらも理想論であり、世の中そう簡単に状況が整わなかったり、なりふり構わず逃げられない人も多いと思います。簡単に「嫌ならやめたらいいのに」とか言ってしまえる人もいる一方で、しっかり真面目に受け止めて我慢してしまう人もいます。

逃げられない人も、すぐに逃げてしまう人もそれぞれ相応にマズいことがありますので、今回の最後にそれぞれに触れて終わろうと思います。

サボり癖には要注意

「嫌なんやったら辞めたらいいやん」などの気軽なアドバイスは、その人が辞めた後、逃げた後の責任は取ってくれません。その言葉の前に(よく分からんけど)とか(何でもいいけど)が付いている感じです。所詮アドバイス、されどアドバイスで、そのアドバイスが上手くはまる局面もあれば、軽率でしかない場面もあるわけです。現実は、逃げてうまくいくこともあれば、逃げて状態が悪化することだってある、としか言えません。

なので、「逃げ出すこと」そのものはあまり大きな問題ではないのかもしれません。私がそれ以上に問題だと思っているのは、むしろそういった言葉を自分に都合よく変化させて当てはめる「逃げ癖」が付いてしまうことです。もしそのクセがついてしまったら、この先で出会ういろんな方面で「すぐに辞める・諦める」ことを選択する可能性が上がります。誰からも責められない“最もらしい理由”は情報社会のおかげで瞬時に山のように提示されます。

そうなってしまうと、ますます成長の機会から離れていくことになりますし、「楽という快」を知ってしまったがゆえ簡単にそのクセを直せなくなってしまいます。また、そのその回避行動を行う場所が自宅や自室だった場合は、ますますそれを脱することが難しくなってしまいます。場所にもクセがつくからです。
さらには、人間は一度「当たり前の状態」ができてしまうと、その状態に戻そうとする機能(恒常性機能)があります。「すぐに辞めてしまう状態」を「当たり前の状態」と取ってしまうぐらい定着するとその元に戻る難易度はもっと高くなってしまいます。

そういうこともあり、早めに自分の成長と向き合える分野と出会うのが良いのですが、勉強や躾などなど、それ以前にすべきことが押し寄せる中、それを見つけ育てることは周りの協力が必要となるでしょう。

折れ目がついて心

折れ目のついた紙を想像してください。1枚の紙を半分に折ったときの真ん中の筋です。これは、一度ついたらそうそう元には戻りません。
重しを載せたり、それにちょっと湿気や熱を足したりしてできるだけ目立たないようにケアすることもありますが、それでも全く元通り、綺麗に戻ることはないでしょう。色が着いた紙だった場合などは尚更です。折り目に下地が見え隠れするようになるでしょう。
そして、いくら折り目が目立たないようになったとしても、やはり折れ癖はついてしまっているので、左右から力を少し入れると、再びそのラインでへにゃっと折れてしまうでしょう。

もちろん、セロテープなどで折り目を補強するなども可能ですが、どうしてもテープが目立ちますし、そのテープは年々劣化が目立つようになってきます。

基本的なイメージは、人の心も同じだと思っています。
耐える力は紙よりももっと弾性があって簡単に折れ目が付くことはないのですが、それでもやはり、とても大きなストレスや度重なるストレス、多方向からのストレスなどで、耐えきれず(もしくは、防衛本能として)折れてしまうことはあります。そして、一度折れてしまった場合は、考え方のクセと同様、そう簡単には元通りということにはなりません。少しのストレスで同じ部分が曲がってしまいます。

幸い、人間のメンタルはこの世の物理法則に縛られるものではないため、さまざまな方法でストレスのかかり方を変えられる可能性があります。先に挙げた「しんどい」をどう見るか、もその一例です。ただ、これも万事な特効薬みたいなものではありませんし、じっくりじわじわ新たな考え方を染み込ませてストレスへのパリィを学んだり、環境を整えたりする必要があります。そもそもまだまだその方法すら確立されて広まっているようなものは見当たりません。(内面の話なので、どうしても胡散臭そうな言説に触れる割合も他の学問分野よりは多そうな印象です)

そのため、現状はやはり、ぽっきり折れてしまう前に多少強引でも回避行動を、ということしか言えないのが歯がゆいです。引き続き精進していきます。

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