相手の立場に立って行動する難しさ

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「相手の立場に立つ」という言葉はとても良く聞く言葉です。

私はこの言葉を聞くと、
「相手の立場に立って考えましょう」という教え?標語?が思い浮かびます。
もちろん「相手の気持ちを考えて、それに沿った行動をしましょう」という感じの意味です。

似非版の「相手の立場に立って考える」

この「相手の立場に立って考える。行動する」という言葉を聞くと、
同じような状況で、同じような意味合いで使われるセリフがあります。
(「似非」というと言葉が強すぎますが。。。)

さて、それは何でしょうか。

それは、

「自分がされて嫌なことを相手にしないようにしましょう」

です。

さて、では、
「自分がされて嫌なことを相手にしない」は
「相手の立場に立って行動する」と比べると
いったいどこが“似て非なるもの”なのでしょうか。

じっくり見比べてもらえば分かるかもしれませんが、
端的に言うと、「発されている立場」の違いです。
もう少し言うと、「自分がされて嫌なこと」は「自分の立場」からの発信であり、
「相手の立場に立って」は文字通り「相手の立場」からの発信です。

「自分のことを私自身が考え、相手を思って行動する」のと
「相手のことを私自身が考え、相手を思って行動する」のでは、難易度の次元が違います。

もちろん、「自分を置いておいて、自分の頭で考える」というだけでとても難しいことですが、それだけではありません。
その「相手」について掴むことはびっくりするぐらい容易ではありません。この「相手」の難しさは後述するとして、一旦、「相手の立場」「相手のため」について整理してみましょう。

誰の立場?、誰のため?

先ほどの2つの言葉は、それぞれ、
「相手の立場に立って行動する」ことは、「相手の立場」から「相手のため」の行動であって、
「自分がされて嫌なことを相手にしない」ことは、「自分の立場」から「相手のため」の行動を起こしているという違いでした。

同じように誰の立場でとか、誰のためにを入れ替えると次の表のようなものになります。

「表現の一例」自分の立場/相手の立場自分のため/相手のため
①「相手の立場に立って行動する」相手相手
②「自分がされて嫌なことを相手にしない」自分相手
③「相手の嫌がりそうなことをする」相手自分
④「自分がしたいようにする」自分自分

「相手の立場」に立ちながら、「自分のため」の行動を、③「相手の嫌がることをする」、
「自分の立場」で「自分のため」の行動を、④「自分がしたいようにする」
としました。(他にも良い表現があれば教えてください)

※もちろん、各表現を微妙に変えるとはっきりした分類をしていくのが難しくなったりします。
「相手が嫌がりそうなことはしない」であれば、「自分がされて嫌なことを相手にしない」との区別が少しややこしいですし、「自分がされて嫌なことを相手にする」だと「自分がしたいようにする」とほぼ同義だと見られるような感じです。
ここでは、その表現の仕方の是非を問うことがメインではなく、「立場」と「目的」の種類を入れ替えてみることで、内面的な成長へのヒントを掴もうとすることが主目的なので、細かな表現の違いについてはご容赦ください。

話を戻します。④「自分がしたいようにする」のような「自分の立場」で「自分のため」に行動するのは、純粋な意味では物心つく前までの幼年期ごろのことでしょう。その後少しずつ他者へのまなざしが育っていくなかで「自分本位」の行動だけではなくなっていき、「思春期」の疾風怒濤感の中で、自分自身の立ち方を根本から組み直すことを迫られていくのだと思います。

そして、ちょうど「思春期」と「相手の嫌がることをする」を組み合わせると、微笑ましくもあるあるな光景が広がってきます。いわゆる、「気になる相手にちょっかいをかける」みたいなやつです。相手の気を引くためには何をすればいいのかを考えた末に、よく分からない行動をしてしまうあれです。
これは紛れもなく「相手の立場」で考える行動でしょう。もちろん、それが正解の行動なのかは誰にも分かりませんが、人生で青い失敗を経験しておくこともまた彩と言えるでしょう。

もとい、この「気になる相手にちょっかいをかける」というのは、「相手の立場」で考えると言えますが、元来自分の欲求のためから動いているものなので「自分のため」でもあります。ということで③に当てはまると考えられます。
その表現方法に多大な疑義があるにしても、意識的に「相手の立場」で考える絶好の機会とも言えます。

自分の欲求に押される形でもなんでも、「自分の立場」ではなく「相手の立場」を考える経験を持てるのはとても貴重なことです。そのような立ち位置でいろいろ考えに考えた経験がある人が「相手の立場に立って行動する」ことに近づけるのでしょう。
逆に言うと、そういう押されるぐらいの感情が無いと、どれだけ頑張っても「相手の立場」について学ぶ機会がなく、②「自分がされて嫌なことを相手にしない/自分がされて嬉しいことを相手にする」の領域以上は行けないのかもしれません。

「相手の立場」の難しさ

さて、先ほどから「相手の立場」と軽く使っているこの言葉ですが、これはとてつもなく難しいことです。「相手」を掴む難しさは「いくら相手の立場に立てたと思ったとしても、絶対的な正解にはたどり着けていない」と言ってもいいレベルだと思います。

ということで、難しい事には違いないのですが、少しその「相手」について考えてみましょう。

・その相手とはいったい何者なのでしょうか。
・何を遺伝して生まれついて、どういう環境で育ち、どういう経験を積んできた人なのでしょうか。
・そしてその結果、どういう感性で、どういう考え方で、どういう判断基準で、どういう行動をとるような人物に成長しているのでしょうか。
・そう成長したその相手は、今どういう状況の中にいて、何を好み、何を嫌い、何を選択するのでしょうか。

もうこの時点で、人物を掴もうとする大変さがビシバシ伝わってきます。
その上での悲報ですが、さらに大変なことがあります。
それは、「相手自身も自分のことをどこまで分かっているのかが分からない」ことです。

・言葉によってなのか、行動によってなのか、その人の表現はいろいろあります。その表現はどこまで「相手自身」を写したものなのでしょうか。それは正しく表現できているのでしょうか。また、その表現の受け手はそれを正しく受け取っているのでしょうか。
・「それ全てが相手に他ならない」と言えば簡単でしょうが、自分自身の言動に一貫性を持たせられる人がどれほどいるでしょうか。その一挙手一投足の揺らぎすべてを受け止めるというのは可能なのでしょうか。また、すべてとはいつからいつまでのことなのでしょうか。
・それどころか、相手の言動が相手の本心でない場合ももちろんあるでしょうが、それはどう判断するのでしょうか。

そういったものをすべて含めて、感じ考え切ったうえで「相手の立場」を理解することはできるかもしれません。ですが、その壁の高さはえぐいものがあります。その時の相手の立場を「100%正しい捉えることは不可能」と言い切っていい理由がお分かりいただけると思います。

「相手のため」の難しさ

また「相手のため」を考えるとき、人を育てる領域で考える場合、ややこしさは増します。
例えば、学ぶことを嫌いなことだと思っている人にとって(かなり多そうですよね)、学習すること自体が「相手にとって嫌なこと」と思うでしょう。そうなると、(嫌な)勉強をさせることが「相手が嫌だと思うことを相手にさせる」ということになるので「相手が嫌だと思うことをしない」という教えとぶつかってしまいます。かといって、勉強してないと将来の不安が大きくなってしまいます。

これをどうしたらよいでしょうか。

そうなると、「相手のため」に時間軸を持たせてあげないといけなくなります。「今の相手のため」と「将来の相手のため」を分けて考えるということです。
このケースに当てはめると「今相手は勉強が嫌だと思っているが、未来の相手のためになることだから今やってもらう」という考え方です。

もちろんそれに対して、「いくら子供であっても相手がやりたくないと言っているのであれば、その権利を尊重してあげるべき」とか「学ばせやすくしていないことが問題なので本人の問題ではない」とか、いろんな意見があると思います。どんどん多様化して理由を作りやすい世の中になっていますので当然の流れです。そして、それぞれの言い分ももちろん分かります。

実際「楽しく学べるようにしてあげるべき」という考え方で、たくさんの教材が出てたりします。
(こちらの記事の2-1あたりで少し触れています)

私としては、相手がいろんな思いや考えを持つことは止められないことだしそれで良いと思っています。そして、持つ情報が多くなればなるほど、またその相手の成長(年齢)が幼ければ幼いほど、その相手が揺れやすいのですが、それもどうしようもないことだと思っています。
情報社会への革命が起こった今、その成長に見合わない知識がなだれ込んできて、それで理論武装することができる世の中になっています。その状態でもやはり内面的な成長の中で揺れは起こります。思春期の精神的揺れは大きく、抱えている知識の量が多いほどそのエネルギーも高いでしょう。それだけに迷いや葛藤なども大きくなるでしょう。
本来その揺れは重要なものなのですが、本人的には不安への対処としてその揺れを知識で無理やり止めてしまおうとするでしょうし、保護者的には面倒事にかまっている余裕を見つけられないご家庭も増えているように思います。
だから、一層、その相手との対話をどれだけ積めるか(それにコストをかけることができるか)は、極めて重要な要素だと思っています。

勉強に何を求めるのか、学習を進めることがどこに繋がるのか、などなどいろんな角度で子供の疑問や不安を和らげられるだけのコミュニケーション量を確保できるのかはとても大事なことです。

しかし、保護者自身もまた情報社会のあおりを受けているわけで、子供の進路に対して保護者自身の正しさ(保護者の立場)をぶつけやすくなっています。それこそちゃんと対話するコストが払えない場合は一層、保護者の言うことを聞かせるのが一番(保護者にとって安心で子供にとっても間違いない道)という結論を取ってしまうことになりがちです。
そうならないためにも保護者側にも余裕が必要なのですが、なかなかにあらゆる方面で余裕が削られている社会情勢なのでここもしんどいところです。

結局、「相手のことなど分からない」でしかない

これまで見てきたように、結局のところ「相手の立場」なんてものは、他者には分からないものです。仮に相手の全人生経験を見せてもらっても、あなたが受け取るものとその相手が受け取ったものが一致することはないでしょう。そして、そこまでして“正解”にたどり着く必要もないでしょう。さらに言えば、本人にさえ分からないものなので、その“正解”を求めて努力しまくることはなかなか意味を見出しにくいかもしれません。

では、どうすればいいのでしょうか。

1つの方向性としては、「相手の立場に立つことは不可能だし、相手のための行動ばかりに気を取られるのもいい結果を導かないかもしれない。だけど、相手のことを想って行動することは相手に気持ちも伝わるし、それが伝わればいい方向に導びかれる可能性は上がります」という感じでしょうか。

それができるぐらいの対話の時間が確保できるならば「今の相手は嫌がるだろうが、将来の相手のためになる」“試練”に進んでいく気持ちが子供の中に育つかもしれませんし、「保護者的には嫌やけど、将来的に子供のためになる」“静観”に進めるだけの余裕が保護者の中に現れるかもしれません。

いずれにしても、できるだけインスタントな答えを出して、手間がかからない(コミュニケーションを取らない)解決策を求める世の中になっていますので、そうなっていけるだけの“余裕”や“仕組み”をどう作っていけるのかが難しさの一つでありコアなのかもしれません。

簡単にすぐ結果や変化は出ないものです。
この結果や変化がすぐに出るものばかりに囲まれた私たちには酷な道かもしれません。
それでも、人として、人間として生きるというのはどういうことなのかも合わせて考えていきたいものです。

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