「気持ちと寄り添う」
「支援者たるもの当事者の気持ちに寄り添うべきだ」
という声も聴きますが、
バカ正直に当事者の気持ちを確認しようとあの手この手をした挙句、
「自分が何をしたいのか、自分の気持ちが分からない」
というお返事を当事者の方からいただく、みたいな話はあるあるなのかもしれません。
置かれた環境から繰り出される何かしらへの対処ばかりに精神を使ってきた人たちにとって、それ以外のことへ気持ちを向ける余裕はありません。そのような状態で長年生きてきた人たちにとって、自分から何かを求めることは想像以上に難しい事なのです。
また、ずっとあった脅威がなくなったからと言って、すぐに安心でき、すぐに自分の本当にやりたい欲求や気持ちが見つかり、行動できるなんてことはありません。(関連記事↓)
「自分の気持ち」とは何なのか
自分のすごく近くにあるもののようで、つかみどころないもの。
よくよく考えると、これは本当に難しいものです。
例えば、
不登校や高校中退の入塾希望者に「不登校になった原因でこれってものがあったりしますか?それって言葉にできますか?」などと聞くことがあります。
もちろん「よく分からない」という答えもたくさん受けますが、しっかりお話してくれる人もいます。そのしっかり話してくれた場合でも、そこで出てきた言葉はあくまで“参考程度”の受け止めしか私はしません。
なぜなら、そこで出てくる言葉は「他人が納得できるようなそれっぽい言葉」であったり、「その人自身がそう表現しているだけの言葉」であったりすることがとても多いからです。もう少し細かく説明すると、
・まず、その人に何があったのか。そもそも事実がどうなのかは、そこ人の話だけでは見えてきません。あくまで、その人がどうとらえたかという話でしかありません。
・また、その時どう感じていたのか。本人さんでさえもその感情を正確に捉えているわけではないでしょう。また、そのときの感情やその移り変わりを正確に言葉で表せることはもっと難しい事です。ついでに言うと、その時感じたことと学校に行きにくくなったことの関連性がどれだけあるのかも分かりません。
・しかも、初対面の場面です。「話の聞き手である私」と「今日会って塾で何ができるのかを聞きに来たその人」との間にはまだ何の関係性があるわけでもありません。どう思われているのか、「不登校」をどう思っているのか、相手にどの程度の期待や信頼ができるのだろうか、どんな考え方でどんな言葉の使い方をしているのだろうか、などなど読み合いの最中でもあるわけです。
なので、言葉そのものを確認するというよりは、その質問でお互いの距離を測っていると同時にその距離を縮めるきっかけを探しているわけです。
また、入塾してしばらくしてもディテールは変われど本質は変わりません。
入塾後しばらくすると、新鮮味が削がれて、やる気もひと段落することがあります。その流れで「またできない自分に戻っている」と危機感を覚える塾生がいます。だいたい入塾後3週間ぐらいが目安でしょうか。
「そうなってしまった自分はどういう気持ちなのか」もなかなかに難しいテーマです。その期間はコミュニケーションが取れていますので、塾生との雰囲気や塾生自身についてもだいぶつかめてきます。なので、やはり気持ちを聞き取りながら、コミュニケーションを深めるわけです。
「自分」を知ること
ちなみに、勉強する/しないという表面的なことはともかく、自分自身についてということであれば、「わからない・できない・格好悪い自分をやっぱりさらけ出せない」ルートか、「さらけ出して新たな自分像を作り直す」ルートのどちらかが分かってきます。塾生の性格や特性によって各ルートの進め方もアレンジしつつ対応を変えてきます。
「自分とは何者なのか」「自分はどうしたいのか」にしっかり向き合えるスタートラインに立てているのは後者です。そして、難しいのは前者です。
前者のスタンスのままにしておくことが、その人の先の人生にとって良いことなのかどうかは分かりません。触れられたくなさそうだからとそのままにして、後で厳しい状況に直面している人たちもいます。そして、それはできるだけ年齢が低いうちにどうにかしておきたい気持ちはあります。しかし、「追い込まれている」思いが強い印象の塾生の方が、さらけ出さないスタンスを取りがちなので、おいそれとはさらけ出す方に誘導することもできません。
生きにくそうであればタイミングを見ながら「自分自身の等身大」を組み直すところからとあれこれ考えますが、勉強だけは要領よく進めてスキを見せない塾生もいれば、追い込まれているほどその道しかないと意固地になって対応の難しさを上げる塾生もいます。
卒塾までのタイムリミットは失敗できる回数や期間に直結するので、早くリカバリーしたい塾生にはその短さも難しさの一つになります。いずれにしてもベースはこちらとの信頼関係にかかっています。と言いつつ、相性的なものもありますし、提案が一蹴されて終わる可能性ももちろんあって、全員がはまっていくわけではありません。
「追い込まれているからこそ弱みを見せられない結果、より悪い結果を引き寄せる」は教育ジレンマのあるあるです。「朝一の全校集会にちゃんと来ている生徒に、遅刻はダメだと説教をする」の裏というか似たような構図です。
うちは基本のコースが完全1対1の個別対応なので「どの道が良いのかを話をしながら本人の性格や感情、将来などを考えていける場」はあるのですが、「自分のできない・分からないをさらけ出しつつ、安心な場で自分とは何者なのか、どうしたいのかを考える」というのはかなり狭く硬派な道なので、塾生側にも一緒にやり切る意思が無いととても進めないものだったりします。そして、このやり切る意思の有無は、それまでの置かれた環境に左右される部分も大きく、イチから正攻法でいく難しさも一方で感じています。
こんな感じでかなり繊細な部分に突っ込んでいくと、やり取りの中で出てくる言葉をこちらがどう受け取るのかは本当に慎重にしなければなりません。感情的に出たものなのか、頭で考えたものなのか、誘導されたものなのか、純粋な自分の気持ちなのか。
「自分の気持ち」は、自分が知ることも難しいし、相手に伝えることも難しい。それを受け入れてもらえて、その実現を手伝ってくれることはもっと。なわけです。なので、「正しい認知」と「正しい表現」を見つけてもらいつつ、成長のためだけの場という信頼を持って、一緒に試行錯誤していくことが必要だと考えています(ここは「正しい」とは何か、みたいなながーい話になるので別の機会に)。
少し話の筋がズレてしまった感じがありますが、無理やり戻ったことにします。
処世術としての「自分の気持ち」の封印
「自分の気持ち」というものの難しさについてあれこれ話して来ましたが、「自分の気持ち」がどのぐらい分かるのかは、それまでの生き方が問われることになります。
前段で「置かれた環境」について触れましたが、環境そのものが牙を剝いてくるわけではなく、正確にはその環境に影響を受けた「人」が牙を剥いて来ます。家庭環境における人間関係であることが多いですが、集団力学や権威性などがある学校やその他の集団での環境も大きな影響があります。
相手が「人」ということになると、だいたいが「立場の強い人(や集団)に都合のいい論理」の押し付けに遭うために、それを受ける側としては「正論」をフォローしつつ「突飛な論理A」「無茶な論理B」「気分次第でありそうな反応C」などなどなどが必要です。質の悪い相手であれば、ありえない想定も含め、様々な角度からの攻撃を恐れて備えることに必死にならざるを得ません。
また、そこまで多角的な防衛策を準備しないとしても、「論理性」の一点だけでも、その詰め方によって、また受ける年齢によっては論理武装のみに必死にならざるを得なかったりします。むしろ、「論理的・合理的である」という正しさにすがっているor信じ切っている人を相手にすることになるので、それはそれで逃げ場の無い戦いを強いられます。
(こう書いていると、どっぷりアダルトチルドレン的なお話ともリンクしますね。)
そういったことに必死になるあまり、意識が自分自身に向かない形でクセがついちゃうことは理解できることでしょう。自分に意識を向けている間に、外からむちゃくちゃな攻撃が飛んできます。むしろ「自分に意識を向けた=相手に意識を向けなかった」ことは更なる攻撃の角度を作り出すことにもつながります。
そういった環境の中で、自分の気持ちを考えることが少なく、そして自分の気持ちを優先することなどほぼ無くなって、自分の感情が良く分からなくなっていくのは自然の流れだと思います。振り返れば私もがっつりそっち側のルートだったので、何となく分かります。私は外に迷惑をかけながら、いろんなことに気を使いながら、ぎりぎり奇跡的にバランスが取れていたのか個としては何とか保っている、という感じでしょうか。
もとい、そういった経験を積んでいる人たちに対して、気持ちに寄り添うとか言いながら、執拗に聞き取りしたり、感情を掘り起こそうとしたり、次のステップに進めるルートを選んでもらうことは難しかったりします。「自分の気持ち」なるものは分からなくて、「それっぽい答えを用意しながら」、「その場の気分とか相手の反応とかに動かされている」だけの存在なのだという事実を再認識させるだけになるからです。そして、その「(出さされた)それっぽい答え」が成就できないことによって、さらに「やっぱり自分なんて」とダメージを重ねることになってしまいます。
タイムリミットが無ければ
ほんとは、自分の感情を出せる機会をたくさん持って、少しずつ練習するのが王道なのでしょう。
はじめは、日常の小さな小さな選択から、それぞれの選択肢がどんな気持ちになるのかを探ってみて、実際に選び、どんな気持ちになったのかを追っていく機会を増やす。それが増えることによって、「自分はこういう人なんだ」とかが少しずつ定まっていきます。
また、現実には「欲しい/やりたいけど-お金がもったいない」とか「欲しい/やりたいけど-あの人が良い顔しない/不機嫌になる/怒られる」などいろんな制約が付いてきます。そのため、少しずつ複雑な条件の選択を経験していくことによって、感情の解像度を上げたり、「1つを選ぶことは、その他を捨てること」を学ぶことで、少しずつ大きな選択にも慣れていけるかもしれません。逆に、わがままを言ってみたけど受け入れてもらえなかった、みたいな経験もあった方がいいでしょう。
こういったいろんな角度で、いろんな解像度で、さまざまな経験を踏んでいく時間的余裕があれば、それが一番自然に近い形だと思います。
理想通りに進まないのが人間
理想で言えば、そんなところです。
ですが、実際の周りの環境にいる人達は、それを見守ってあげられるだけの余裕ある人たちばかりではありません。いろんな心配や不安、条件など、それぞれに抱えたものを持っていっぱいいっぱいの中、あなたに対応している人たちも多いでしょう。それに、その日によってコンディションも機嫌も変わっていくのが人間です。その自分に攻撃が向いてくるのではという不安・揺らぎの中で「自分の気持ちにも目を向けないと」ということになります。しかも、人によってその表出の振れ幅は千差万別なため、とてもじゃないけど自分に気を向ける余裕はないかもしれないし、それを分かち合って慰め合うにも他人が分かってくれないこともたくさんあるでしょう。
振れ幅の例として、もしかするとこんなケースもあるかもしれません。
・「幼少期はすごくわがままを聞いてもらえていた」が、保護者が「このままでは将来が心配だ」とか「いい加減にさせないと」とか思って、わがままに対して怒る対応をはじめました。怒る対応は短期的&止めさせることには効果が高いので「怒る」を多用するようになり、その表現もエスカレートするようになりました。急に保護者の対応が変わったうえに、ただただ怖いと思うようになって顔色をうかがうだけの生活になりました。」
とか
・「昔から大人が言うことは従っておいた方がいいと思って顔色をうかがいながら、大人が好きそうなことを率先してやっていたが、いろいろ経験していくにつれて、大人はそれほど正しくないと思うようになりました。でも、大人の顔色をうかがうクセがなかなか抜けず、大人にも自分にもイライラして無口になり、ついには物に当るようになりました。」
とか。
大人も本人も、時間によって態度、言動が変わることは大いにあり得ます。先の2つの例は、大人なり本人なりがいろんな考えやフラストレーションが溜まった結果ではあるのですが、変化した対応を受ける側は、その急な変化に戸惑ってしまいます。変化が急になる前に、いろんな考えとか欲求とかを共有して調整することができれば何とかなったかもしれないですが、そのコストをかける余裕がない場合も多いでしょう。
また、急という話のつながりで、急なわがままがそこそこ成長してから発生すると無気力や暴力に訴えやすいと思いますし、無気力や暴力という話で言えば、人生レベルの大きな選択を求められるときも注意が必要です。どちらのケースも、本人の表現や選択の経験が少ないことも大きな要因です。その極端な対応になるぐらい間の経験がなかったわけですし、人生を左右する重大な選択の大きさをこれまでの選択経験だけではどう対処していいか分からなかったわけです。こちらも、それの間を埋める経験を積める余裕があれば、というところです。
(大人も本人もその時その時は最善の策をと思って一生懸命生きています。その結果をどちらが悪い、どちらかのせいだということに意味はないですし、正しくもないと思います。)
とはいえ時間は待ってくれない
「一つ一つ、自分の小さな感情、小さな気持ちを探っていく」というところから、個別対応で「どの大学のどの学部を受けたいのか」までもっていくのは相当にコストがかかります。今の気持ちを見つめるだけでなく、将来に渡っての選択となると、その選択の重要性は大きいものだと感じてしまうでしょう。
なので、
・大きな選択だと思って不安をどんどん膨らませている人には「大きくなった不安が張りぼてであることを確認する」ことを実践してみて、次の不安への練習にしてみたり、
・進路に迷っていて論理的思考でバインドされている人には「保護者も自分も双方が両得である落としどころの大学の選定とそのための勉強コスト」を納得してもらう方向で道を付けてみたり、
・周りの意図と自分の思い込みで自分の考えとして固まっている人には「勉強を進めながら固められた自分への違和感を刺激する」方向で話を続けてみたり、
それぞれの塾生のこれまでの思考と価値観の回路と、時間的な余裕と、本人の「自分自身を見つめ直したい」度合いによって、進める道筋を変えています。まだまだ試行錯誤な部分も多いですが、少しずつ前に進んでいるとは思っています。
大学入試という分かりやすいハードルと、タイムリミット。制約があるからこそ動ける部分もたくさんあります。個人対個人でできることはこの程度のことしかありません。人はサボりたい生き物なので、その制約を上手く使って、次に進む道を作るのはもちろん、自分自身と向き合う機会を作って、その先の人生を自分らしく生きていけるような方向を確立していきたいですね。