不安という依存先

NO IMAGE

今まで不安だったものが徐々に解消されて、さあこれからの人生をどうしていくのか!とわくわくなフェーズに入っても良さそうなのに、一瞬で再び不安に陥ってしまう人たちと何度も出会ってきました。この人たちはなぜわざわざ良くないものを拾おうとしてしまうのでしょうか。

いろいろと話を聞いていると、依存と同じような構造があるなぁと感じていて、そのあたりを少しまとめてみようと思いました。

依存について

依存というと、アルコールやギャンブル、薬物、人間関係、スマホ(ゲーム、動画)など、いろんなものが頭に思い浮かびます。大きくは「物質依存(アルコール、ニコチン、薬物、カフェインなど)」と「プロセス依存(ギャンブル、ゲーム、買い物、食事、犯罪、自傷など)」に分けられ、その他「環境依存(人間関係、宗教、仕事など)」で分類されたりもします。いずれも「依存者が刺激や利益、安心などを求めて、一時的なものでしかないものに多大なコストを払ってでも手に入れようとする」というのが基本だと思います。

今回は「不安」に依存するということなので、「目に見えないもの」であり「自分の内面にしか影響しにくい」うえに「ネガティブに捉えられがちな感情」という3つの点で、依存先としてはかなり特殊なものだろうと思います。
あまりに特殊なので「依存」というより「恒常性」に近いのような印象もあります。ここでは自分から求めて動くものを「依存」、人間の機能として自動で動いてしまうものを「恒常性」と区別して、あえて「依存」と呼んでいますが、その分類に対した意味はないので、悪しからずご了承いただければと思います。

新たな不安を呼び込むメカニズム

「課題がちゃんと出せるのか」とか「試験にちゃんと通るのか」「大学に入学できるのか」「人前で一芸の発表が迫っている」「バイトで分からないことが多過ぎる」「気まずくなったあの人とちゃんと仲直りできるのか」などなど日常に不安はたくさん転がっています。その不安を感じる度合いは人によって違うでしょうが、進学先の確保など将来への不安は、不安の中でも少しウェイトが重たいものでしょう。(「大学生の就職活動がうまくいかなくて・・・」という話もよく聞きますので、将来への不安の重たさは想像に難くありません。)

さて、それではいくつかの不安を抱えている人を例に挙げて考えてみましょう。

  1. とある人が「バイトで覚えることが多過ぎる」「課題をちゃんと出せるか」「大学入試の面接が迫っている」という3つのことに対して「大丈夫かな、ちゃんとやれるかな」と不安を抱えているとします。
  2. そして、頑張った結果、その3つとも良い状態でクリアできた・なんとかなったとします。
  3. そうすると、その人の中には「不安で頭を悩ませる」ということがなくなってしまい、“何もないこと”が逆に不安を呼び、その不安が「自分の周りの新たな不安」を探す原動力になってしまう。
  4. そのあとしばらくして「最近の調子は?」と聞いてみると、「頭がぼーっとしてしまって」「何となく首が痛くて」「生活習慣が乱れてしまって、ダメですよね」といったお返事が返ってきました。

個人的には、もともととても真面目な性格であったり、周りからの示唆や指摘が多い環境に身を置いていたり、良く考えることを褒められ何でも考えすぎてしまう性格になっていたりする人達が、こういったサイクルにはまりやすいように思います。

こうやって改めて考えてみると「不安との付き合い方」はなんだか「色々考えている俺かっこいい」的な思春期男子の雰囲気も感じます。そしてどちらもアイデンティティ確立に必要なステップなんだろうとも思えます。
そういった感じの受け取りをしている人もあれば、もちろんそうではなくて、「不安とともにあること」がただただ当たり前であって、それをそのままネガティブなものとして受け取っている人もいらっしゃいました。

この「不安の引き寄せ方」にもいろいろなタイプがいるとは思うのですが、私が「不安を引き寄せること」を問題だと思うのは、「不安を感じる」ことが基本的にネガティブな働きをしていることが多いからです。
思春期男子よろしくの「考えすぎ」であればニュートラルもしくはポジティブ寄りの方向に誘うものだと感じますが、「不安」と同居しながら過ごしている人達は、その不安の対処に脳のリソースがかなり割かれていて、その結果あまり良い状態にはなれず、スムーズな成長を見通せない人たちが多いように思われます。

そういうわけで、「不安」については、ネガティブなイメージ以外を持つか、不安に依存しないでもよい状態にしていくことが必要だと考えています。

せっかく良くなったのに良くなれない例(2種)

こういったケースは他にもいくつか見られます。
もっとも有名なのは、「ミュンヒハウゼン症候群」でしょう。

ミュンヒハウゼン症候群(作為症・虚偽性障害)とは、他者の同情や注目、関心を集めるために、自ら病気やケガを偽造したり、わざと体を傷つけたりする精神疾患

ここまで行くとさすがにしっかり病名がついてるものですし、「自分の内面だけ」では済まない状態になっていて、状態の重さやそこから出る行動もかなり極端な場合もあり、もろもろを見ても軽く触れていいようなものではありませんが、

「闘病中は周りからたくさんの想いを受け取っていたが、病気が治り、そこからは周りからの想いを受け取れる機会が無くなってしまったので、その機会を作り出そうとする」という形であれば、今回の「不安が無くなったので、不安を補充する」という構造に近いように思われます。

また、もう少し日常に引き寄せて考えてみると、「貧乏であることの大変さを切々と語っていた人が、大金を手に入れお金持ちになったが、貧乏であるかのような言動がやめられない」みたいな話もその形に近い話でしょう。
私も非営利活動には長らく関係していますので、この分野で働く人達(特に代表)は「清貧でいること」が活動のしやすさに繋がる部分もあるので、このあたりの苦悩は時折目にします。お金持ちかどうかはぱっと見だけで判断できるようなものではないですので、こういった部分に言及しているだけで私は誠実な人なんだろうなと感じますが、たまに非営利と謳いながらとんでもないのも現れたりして、世間では非営利団体は怪しからん的な言説も飛び交っていて、どんどん話がややこしくなることで、結果、真面目に頑張っている人たち程多くのしわ寄せが行くことになるのですが、それはまた別の話。

ステージ変更のコスト

「不安が解消された」「病気が治った」「お金持ちになった」という、一見良さそうな流れに身をおきながら、それを普通に表明できないどころか、あまつさえその状態を放棄して元に戻ってしまうほどのしんどさはどこにあるでしょうか。
(ここを考えると「依存なのか、恒常性なのか」とますます疑問になってきますが、意識的であれ無意識にであれ、真っすぐ生きられない大変さこそが問題なので、分類の問題は放置してこのままもう少し考えてみたいと思います。)

ずばりそのしんどさは“不安”にあると思います。
この不安は、拠り所のない不安。「不安定」という意味の不安です。

「病気が治った」場合には、もちろん先に挙げていたような「みんなの関心が無くなって寂しい」という思いがあったり、他にも、病気が治ったために普通の人と同じように、学校行ったり仕事をしたりとやらなければならないことが増えたので、それが面倒に思って「病気の時の方がよかったな」と思うこともあるでしょう。こういったこともすべて含めて「不安定」です。
もう少し抽象的にまとめてみます。「不安定」というのは、病気の状態であれば勝手が分かっている「これまで通りの病気の人」のスタンスで振舞えばいいだけですが、長期の病気から治った人は、「病気から治った人」のスタンスが分からないです。この「病気から治った人」がどのようなものか、どう振舞えばいいのか。あまり情報もない中でイチから「自分なりの病気から治った人」を考えようと、行動しようとオロオロしてしまう、この「オロオロ」が不安定そのものです。

「お金を稼いでしまった非営利団体の経営者」も同じです。これまでは「自分も貧しく、しんどい状態の人たちと同じ目線で同じ苦しみを感じて活動していた自分」像ははっきりありますが、お金が手に入ってしまったらその「同じ目線」のような強みが無くなってしまい、どのように振舞ってよいかが分からなくなることもあるでしょう。
組織の経営の話であれば、①自分の貧富には一切触れない、②非営利団体の経営者が豊かであっていい理由を作る、③同じように寄り添っている感を出す、のどれかで対応しているように思いますが、このうち最も難しいのが②の「理由を作る」ことです。②の道はここでいう「不安定なものを安定させる」道の難しさと重なる選択肢です。ロジカルに「理由を作って」そのように「行動する」のですが、万人が納得するような理由は無いわけで最適解を探って試行錯誤する段階を「オロオロ」と呼んでもよいでしょう。

同じように、今まで「不安とともにあるのが当たり前」であった人の元から、「不安」が消えてしまったら、「不安の消えた振る舞いが分からないという不安定」に襲われることは当然だと思いますし、「不安のない人の生き方」を探すのにもそれ相応の時間と労力のコストが伴うでしょう。
思春期で周りの目を意識する多感な時期であれば、その難しさはさらに大きなものになるでしょう。

スタンスを見つけるまでのスタンス

これまで見てきたように、不安に依存すること(=新しいステージへの不安で、元の不安に戻ること)は人間として当然あり得ることです。それまでの生き方で不安とともにいた人たちは、不安が無くなったら不安を探したり、不調を探すのは当然のことだと思います。
そして、それに対してどうするのかを真っ当に考えていこうとすると、それなりに大きなコストが必要なので、手っ取り早くどうにかできるものではありません。

「悩んいたことが片付いたと思ったのに、気づいたらまた悩んでいる・不安になっている」という方は、まずはその不安について、「本当に新しく出会った不安なのか」「不安定を避けるために不安を求めているのか」を考えてみることは大事です。
ノーガードでそのまま受け入れるとそのまま流されるしかありませんが、自分の状態を認識できているとその流され方も変わります。

そして、「不安になっている自分」と直接向き合わないことも大事です。もし「不安を集めているかもしれない自分」に気付いた場合、「だから自分はダメなんだ」という方向にもっていかないで、「人って面白いな」「私ってやっぱ人間なんだな」と思いながら、その状態をポジティブに見る角度でいることに努めてみてください。

最後に

同じことをしてしまう、同じことになってしまうというのも、依存や恒常性、慣れ、クセなどいろんな言葉で表されます。今回は「依存」という強い言葉を使いましたが、「慣れ」や「クセ」と言い換えた方が変えられそうだと感じるのであれば、そのように受け取ってもらえると良いなと思います。私ももっと人について、人間について理解を深めていきたいと思います。

ひとの成長カテゴリの最新記事