偏った社会とお金の見方
とある国のお金のお話。
<プロローグ>
この国では今や国民負担率が50%に迫ってきていて、歴史の授業で習った江戸時代の「五公五民」=「重い負担」→「民衆の一揆」みたいなことがちらついています。
私が生まれたときの負担率は30%程度でした。この40年でお上は「高齢化で大変だから」「国の借金は返さないと」などを盾にどんどん負担が増えていく一方です。さらに最近では同じく国民負担ではあるんだけど「税金」よりもこっそり手軽に負担を増せる「社会保険料」を毎年なんやかんや名目つけてちょこちょこ増やしています。それを「税金ではないので、増税ではない」という言葉遊びで何とか乗り切ろうとする方も、乗り切れちゃってそうなところも、こっちまで脳が止まってしまいそうになります。
ともあれ、そんなこんなを永遠と数十年続けていたりして、この「失われた30年」の間の政治の責任とか言いたいこともたくさんありますが、今日の本題はそこではなくて、国民の負担が増えていく今の世の中について見てみようと思います。
1.どんどん民衆から吸われていくお金
ということで、今の世の中ではどんどん国民負担が増えています=稼いだお金の半分は国に持っていかれています。そしてこれは、財務省の思惑と国会議員の思惑が合致しているのですぐには止められない=ますます負担が増えていく流れになりそうです。
2.集められたお金の行方
そのどんどん集められるお金、お金をたくさん集めてお上はどうするのか?という所が気になりますね。
2-1:「借りたものは返さないと!」
最初にも書きましたが、よく言われることの一つが「日本は公債(借金)が大変だからそれを返すためにもお金を集めないと」というものです。「日本は借金が大変!」「総額1300兆円もある!国民一人当たり1000万円も!返さないと」というやつですね。これもぼーっと聞いているとそんな気になってしまうやつではあります。
なんですが、日本の借金については、
- 日本の借金は円建てなので(=日本円で貸しているので、最悪日本円の紙幣を刷ってしまえば一応借金は返せるので)大丈夫とか
- ほとんどは日本国民から借りているものなので(=最悪財産没収とかしてしまっても他の国には迷惑はかけないので)大丈夫とか
- 公債の額が多かろうと少なかろうと日本円の価値があまり上がったり下がったりしていなさそうなので大丈夫とか
いろんな話がちらほらしています。
そもそも資本主義経済自体、「お金=紙幣=ただの紙」に価値があるってみんなが信じているから成り立っているわけであって、昔のように「お金=金(価値ある貴金属)」という形ではなくなった時から、徐々にみんなが信じられる金額が加速度的に上がってきているように思います。今は「ただの紙」に価値があることをみんなが信じ切っているので、公債の額が大きくても「よく分からんけど、大丈夫なんじゃないの?」と普通に経済が回っているのかもしれませんね。
ってことで、大きな経済のことはよく分かりませんが、みんなが信じられないぐらいに大量に適当にお金刷りまくって撒きまくったらどこかで大変になるんだろうと思いますので、その使い方はしっかり考えて行かないといけないです。
ちょっとそれますが
あ、あと、ここに関連する話として、国債を買っている人(=国にお金を貸している人)っていうのは基本的にお金に余裕のある人たちなので、この人たちに返すお金を貧しい人含めたみんなからの税金で返すってことは、格差が広がることになるんだろうなーと思ってみたりもします。そもそも税の再分配はみんなから集めたお金をみんなで利用するものとか貧しく助けが必要な人のために使ったり、ってものだと思うのですが、この国はそれが結構苦手みたいで、「富める者はますます富み、貧しい人はますます貧しくなる」のが資本主義の流れのままに流れてるんだろうなーと思っています。
2-2:「高齢者とか社会的弱者を見殺しにするのか」
そして、国民にたくさんの負担を強いるもう一つよく言われることは、冒頭で触れた「高齢化が大変=社会保障費に使う」というやつですね。これもイメージとしてとても分かりやすいので、同じくぼーっと話を聞いてたら「そのとおり!」ってなるだろうし、人の命に関わることですので、基本的に文句の言いにくいところですね。(だから新しいことをやるときに、古いものも手を付けないで放置するがためにモリモリ膨れ上がっていく側面もあるのかと。だけど、そのお金で生きている人にとっては死活問題だから抵抗力も大きくなるよね)
「文句が言いにくい領域(=誰からも文句が言われない)」✕「各領域で必要な金額が積み重なって、額が大きすぎて何が適正金額かもわからない」ってことになります。そうすると、いろんなところが「うちもここにはこれぐらいの金額は必要なんです!見捨てるんですか!」と声を大にして言うだけでお金が降ってくるわけなので、際限なく額が膨れていくのも間違いないことでしょう。
3.お金は権力そのもの
ということで、あれにも必要・これにも必要=負担増・負担増ってなっていって、行政にお金が集まると、どんなことが起こっていくでしょうか。
3-1.何でもできるようになってくる。
「借金を返さねば」とか、「社会保障のために」にも、もちろん使われている(と信じるしかないんだけど、金額が大きすぎて一般人には追い切れない)んだけど、その他にも何でもできるんです。お金の扱える量が増えるということは、世界を動かす力を増やしていくということなのです。大きなお金の力を得るとどういうことができるのでしょうか。
例えば、お上がむちゃくちゃ大きなイベントだって出来ちゃいます。なんたって権力がありますので。
たとえそのイベントのためのお金(税金)の使い方が無茶苦茶であったとしても・・・
① テレビや新聞などのマスコミはそのイベントをポジティブに取り上げまくって、民衆がみんな盛り上がっているように演出したり誘導したりすることができます。(今や大手メディアも昔のビジネスモデルが崩れているので仕事を選んでいられない状況とも言えます)
② そのイベントの正当性(お金をかけてでもやるべき理由)は、調査会社が発表するそのイベントの経済効果(=イベントを開催したときに、どれぐらい経済効果(お金が生み出される額か、というか動くか))ということになりますが、この数字もさもすごいことのように適当に出して、それをマスコミに発表してもらって信ぴょう性を持たせることもできます。(お上と調査会社がどっちも得をする形なので喜んでやるでしょう)
③ そのイベントに必要なものは、お上と仲の良い大企業にお仕事として(お金とともに)お願いするでしょう。(「大きな事業だから実績のあるところで」などと理由を付けてたりしながら)。また、小さな組織や個人には「この一大イベントに参画した実績が付く」などのバリューを餌に無償や超安価で働く人探すことによってどんどん現実化していきます。(実際大手の企業さんじゃないとできない仕事もたくさんあるやろうからこれも難しいところではありますが)
そうすると、民衆からのクレームをかなり抑制しながら、事業を進めることが可能です。
①のマスコミも、②のシンクタンクも、③の大企業も、お上の持っているお金によって売り上げを立てたいので、お上の方針に沿う方向になります。担当者としては「とりあえず今期の売上が達成できればOK」だし、会社としても「業績好調なら何でもいい」だし、行政としても「書類通りに滞りなく進めばOK」みたいな目先の利益のために動くことも全く不思議なことではありません。というか、むしろそれが今の社会のスタンダードになってしまっているかのようにも思えます。
一部お上が行き過ぎて、あまりにもひどい条件を出してきたため大企業はお上に従わないで「そのお仕事は(無茶過ぎるので・うまみが少ないので)結構です」ということにもなっているようですが。
3-2:お上にお金が集まることの弊害
とはいえ、だいたいは先に見たように、お上の方針に従うと、①大きなお仕事(=お金)がもらえる、②再委託も含め楽できる、③マスコミも味方してくれるなど、とてもコスパの良いお仕事が可能です。そして、お金が足りなくなって困ったなーってなったら、あれこれ理由をつけて予算を増やしましょうって言えるし、それも企業同士の関係性よりは比較的受け入れてもらいやすい。お上もその原資も国債発行したり、税金上げてみたり、社会保険料(年金とか保険とか)あげてみたりとか何とでもできるように見えます。
また、コスパが良い以外にも、この方向の循環が回りやすいのが今の社会の状況(=国民負担率が高い社会)でもあります。
どういうことかというと、
- (1)
- (2)
- (3)
国民の負担率が上がるということは、国民が自分で使えるお金(可処分所得)が少なくなります。
国民の可処分所得が低くなると、国民を相手にする企業の売上は下がっていきます(個人向けの仕事ではなくて、法人向けであればまだましでしょうが)。超少子高齢社会の人口減少期なので、将来的にはますます日本の市場は小さくなってしんどくなることでしょう。
国民にお金が無い=行政がお金をたくさん集めているし、毎年の強制徴収だから収入は安定しそう→行政と仕事をしよう!の方向に流れます。行政からの委託事業や制度に則った補助金事業などの仕事に関わっているところはかなり多くなっているのではないでしょうか。(個人向けじゃなくて、企業向けの事業であればまた景色は違いそうですね。あと、海外に活路を見出そうとするところもありますね)
株式会社をはじめいろんな組織は、売上拡大、年々成長を目指しているところが多いので、となると、コスパが良くて売り上げが安定しそうなお上関係のお仕事はなかなか魅力的に映るんではないでしょうか。そして、一度そんな感じで楽に大きなお金を得られるようになると、それを供給してくれるお上をますます支えていく流れになるのは当然ですね。ある種の依存症のような状態です。(そういう姿勢で仕事をしていくと、どんどん近視眼的に、目的的になって表面的なところしか価値を感じられないような企業や人があふれる社会になっていく危惧はありますが)
ともかく、そうやってお金を集めるお上、それを支える大企業の構造になり、さらにお上は(お金で繋がった関係で仲間を得て)権力を増やしていく、の流れが出来ていくことになります。
4.三権分立と第4の権力のバランス
三権分立のお勉強
もともと、ひとところに権力を集めるとろくなことにならないのは歴史が証明しているし、18世紀中ごろにモンテスキューが『法の精神』の中で権力を3つに分けて安定させようみたいな話をして、定着しています。
3つの権力は、
立法権(法律を作る権力:日本でいう国会)、
行政権(法律に基づいて政治を行う権力:内閣と官僚)、
司法権(法律で人を裁く権力:裁判所)ということになります。
また、その3つの権力を監視して民衆を扇動できる4つ目の権力として、メディアの力が第4の権力と言われてきました。
立法権+行政権
この国においては、お上といえば行政権のことを指すように思います。でも、この行政権を司る内閣は国会の多数決で各省庁のリーダーが決められるので、立法権と行政権は結構一体化しているようにも思えます。これは「国民から選ばれているから」という理由なのか、政治家たちの権力は強めに設定されていて、立法権と行政権に非常に大きな影響を与えることができます。(それをいいことに都合に応じて、「今は立法側の顔」「今回は行政側の顔」って都合よく使い分けることでいろいろ濁している感じもとてもずるい。)
また、三権分立のために、各権力はお互いに監視しあえるカードを持っているのですが、それも立法行政権を握っている政治家の力はやはり強いんだろうと感じさせることもあります。
立法権+行政権+第4の権力
ということで、行政にお金と言う権力が集まって、それを使うために立法も都合のいい法律を作って利益を守っている状態のように思います。
そしてそのお金を使うことで、困っているメディアもそれを助けるような形で、自分たちの存続を守ろうとしているような節もあります(もちろん全面的に、ということにはなっていないですが、これはこれでまたいろんな利害関係によるパワーバランスがあるんですが一旦無視します)。ともあれ、メディアの権力がお金によってどこかに寄りかかることで、立法行政メディアの権力はチームを組んでいるような状態が出来上がります。
司法権はどこまで独立を保てるのか
残された司法も、残りの3権力がタッグを組むような形になると、それに従わざるを得ないような動きもちらほら見えますので、結局司法権だけではその強大な権力には抗えず、一部の人たちで構成される小集団による独裁とも言える状態なんじゃないかと思います。(小集団による独裁は、構成する人たちがいろんな役割を担える(=不満のガス抜きの役割をしやすい)ので、不満をぶつけにくくてその形を変える力が溜まらないという点では、ある種一人での独裁よりもたちが悪いようにも思います)。
独裁を維持する方法
この政治家を起点とする小集団による独裁は、
- 政治家が、立法と行政の両方のお金を使える状態にあって、野党より圧倒的優位な立ち位置にいる。(裏金問題:個人の秘密のお金、もそうだけどそれ以前に政党交付金:立法権のお金、とか官房機密費:行政権のお金、とか多分使い方ごちゃごちゃになってるだろうし)
- 政治家が、自分たちの都合のいいように立法権と行政権を使える状態にある。(与党有利な選挙制度(=小選挙区制・比例代表制)に法律変えるのもそうだし、行政的な国の統計資料だって読み方変えて良さそうな数字を発表することだってできるのもそうだし)
- 政治家のイメージを後押しするメディアがある
- 政治家を金銭的に後押しする大企業がある(政治家からの見返りもあるでしょう)
- 政治家を投票数で後押しする団体がある。最近は宗教系とかスピ系、ビジネス系が元気が良いですね(政治家からの見返りもあるでしょう)
このあたりの要素が整えば、ある程度権力は盤石になりそうで、現実、ほぼ出来上がりかけていたんじゃないかとも思えます(失われた30年の間に徐々に、最近亡くなった方のときに急激に)。
ちょっと話はそれますが
民主主義にはコストがかかるとはよく言われますが、それは民衆の声を拾い上げるためのコストであるべきで、権力を囲うために使われるものではないんじゃないかなぁと(よく「票を金で買う」みたいなことも言われますが、直接現金でお願いするのも、メディアにお仕事としてお願いするのも、事実上まかり通っていますね)。
新しい権力分立の形は見つけ出せるのか
こうなったら三権分立もへったくれもないので、三権分立から300年ぐらいの時を経て、今の時代にあった新しい権力分立方式が待たれるんじゃないかなあなんて思うわけです。(利害と数字だけしか見ない人たちが増えると本当に薄っぺらい社会になって、この国の良さは死んでいくんだろうなと思わずにはいられない。。)
なんにせよ、民主主義の法治国家を掲げているわけだから、「選挙で選ばれた政治家」が強いわけなので政治家から変わっていかないと。なんだけど、行政からの恩恵を受けている人や企業は今の形変えるのは抵抗あるだろうし、そもそも、これからの混沌とした問題山積の時代に期待したい政治家さんがどこにいるんだろうかと(それを後押しする民衆もなんだけと)。政治家も、行政の人も、みんな個人個人はそれぞれとても良い人なんだけど、ね。
おしまい。
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エピローグ
メインどころの権力と組んで美味しい思いをしている、というところだけじゃなくて、メインどころの話だと「ここが足りてない」「あそこは見捨てるのか」と自分の利権領域を作ろうとする人たちについては触れられずでしたなー。
ここはここで、「しっかりとした大義名分」があれば、「政治家としての実績」と「生まれた利権の中で生きられる」でwin-winの関係が作られるのでこれまたややこしい話ではあります。本当にその領域の人の為に活動する人と、口先だけでやってる感出せばいいやの人を見分けるのは至難ですから。
(サムネにはfirefly(adobe)を使用しています)
でもまぁ、人間みんな基本的には楽したい生き物ではあるので、みんな同じようななのかもしれませんね。
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