「目先のコスト」と「未来の衰退」

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世の中、コスパを求めるのがすっかり定着してしまったし、わたしも集めてるゲームとか書籍とかもできるだけ安くとは思っている(中古品だからということもある)が。

格差の拡大はどこから?

格差の拡大は、その一端をみんながコスパを求めているところから始まっているんだろう。

わたしもお買い物を考えるとき、コスパを求めたい気持ちが先行することがよくあります。
コスパの良い製品は、基本的に「大企業がその生産や加工をより安い日本人以外に求める(昔から言われる“産業の空洞化”=多くの日本人の収入にはならない)」ことで成り立っていると思われます。

コスパは魅力的なので、特に収入のない人はその不安もあって、ますますコスパを求めてしまうのは想像に難くありません。そうなると、買い物で支払ったお金も日本や地域からコスパの源泉(=生産や加工をしてくれた海外)に流れていき、それがゆくゆく収入のさらなる少なさに繋がっていくという悪循環が回っていってしまいます。
(もちろん、海外から日本へのお金の流れを作れるとそれが戻ってきて収入が上がるということもあり得るのですが、一昔前の日本がお金を集められていた産業はがっつり削られ弱くなってしまっています。政府や地方行政が「観光」を喧伝するぐらいにはその衰退ぶりは明らかですね。)

話を戻して、どんどん日本からお金が無くなっていく(=収入が少なくなる)悪循環が回っていて、その循環を変えられるのはやはり収入がある人、になるでしょう。そうなんだけど、収入がある人の収入もコスパを生む仕組みを支えられていることが少なくなく、そうなると根本的にその構造を変えることは難しいと言えるそうです。また、そうでなくても今の世の中では「贅沢ができて、余裕があってうらやましい」的な見られ方をするのでコスト高いものを購入すること率先して推奨していくことは、その人にヘイトを集める行為とも言えるのでいずれにしても難易度は高めだと感じます。

コスト一辺倒を捨てることは、目に見えないものを大事にすること

「コストや効率を求めること=関係性や個性を切り捨てること」だと昔にどっかで書いたんですけど、コストばかり求めると関係性とか個性の築き方やつながり方もどんどん忘れていってしまいます。そうなると、人とのつながり自体を避けるようになり、「効率」以外の身の振り方ができなくなってしまいます。まずはそうならないように、数字やグレードでは評価されない、自分の「好き」とか「惹かれる」とか割り切れない感情を大事にできることが初めの一歩になっていきます。

ということで、ただただ価格を下げるために海外の安い労働力などを使っているだけではジリ貧でしかなく、日本の給与の底上げのためには多少高くても日本人や日本社会の財やサービスを利用するべきだと思います。

「自分のことばっかり」という非難について

がしかし、こういう話になると「ブロック経済だ」「ナショナリズムだ」「自分の国だけが良ければ良いのか」という声が上がってきそうですが、超少子高齢で今後急激に人口が減っていく社会である日本(=「自分の国だけが良い」どころかその国そのものの消滅危機)なわけで、そんなこと言ってる場合ではないような気もします。
(ここしばらくは将来の命を削って今の人たちの権利を守っていましたし、今や、現役世代を削ってその他の人たちを守ろうとしているように見えます。言わばトリアージが行われる事態なのでどう考えても緊急事態なのに、政府の言葉遊びのごまかしに浸って、その状態に慣れすぎてる茹でガエルの例えまんまです。そろそろ耳障りの悪い、答えを出すのが難しいことに向き合う必要があります。)

デフレも失われた30年も政治の責任と言われることが多いです。でも、コスパ信仰の延長線上でもあるんだろうと思います。政治家はもちろんクソなんだけど、市民(=消費者)もお金が入ってこないから仕方ないとはいえ、みんなでコスパを求めていっているところはその片棒を担いでいたのと同じ状況とも言えます。

未来のための消費へ

消費者が見えないものに気を配って生きることができるといろんなところに気づける感性が育つでしょうし、そうなると長い目での変革にも耐えられるということだから、回り回ってクソの排除にも繋がっていく気がします。好循環は好循環で回りますし、悪循環は悪循環で回るものです。

ちゃんと考えて自分たちのための消費できるように、目先の安さだけじゃなく回り回って自分たちの生活を潤してくれる消費ができるように。これこそ多くの人がそれを良いものだと信じて動けるかどうか。目先のお金を信じるように。

(サムネにはfirefly(adobe)を使用しています)