寛容なのか不寛容なのか
最近のいろんな流れを見て、ずっと考えている。
寛容とは何か、不寛容とは何か。
さてさて、ぐっちです。
寛容も不寛容も、状況とか場面とか相手とかでいろいろ変わりがちなわたしです。
しっかりした線引きできる?
寛容とはどこまでのことなのか。
・マウンティングの応酬を見せられて、どっちがどっちに寛容/不寛容なんだろうか。
・都合のいい時は良い顔をして、不都合なことには不寛容な言動を煽るとか。
・動き出せないこの人をどこまで寛容に見守り続けるのが良いのだろうか。
・さっきまで書いてた各コミュニケーションスタンスも、相手を卑下したり批判したりする様子がよく目につく。
「寛容に認め合う」なんて言葉はきれいで簡単だからこそ、その反面、現実は非常に難しいなぁと。
ややもすると「寛容であるべき」なんて、寛容の強要はもはや不寛容ではないかと思うわけです。
不寛容のパラドックス
1.不寛容な人を寛容な心で許してしまえば、
2.やがて、不寛容な人がその不寛容な部分を暴力で認めないようにしていき、
3.結果として不寛容な社会が生まれる。
それも分かる。
だけども、その不寛容さが否定されるのは「暴力」や「迫害」に対してではないかと思う。
相手に積極的に危害を加えないものであれば、それぐらいの不寛容は認められてもいいんじゃないかとも思うわけです。
自由社会の哲学とその論敵 [ K・R・ポッパ- ]
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人はそんなに単純じゃない
私はよく「人は単純で複雑な生き物」だと言います。
でも、単純だと言っても、
・好き。だから、応援する。
・嫌い。だから、迫害する。
みたいな極端な行動ばかりじゃないと思うわけです。
「関わりたくないから私は距離を置かせてもらう、あなたは思うようにやればいい」みたいなスタンスは、寛容なのだろうか、不寛容なのだろうか。
応援してくれる人もいれば、応援しない人もいる。
応援したいと思う人もいれば、応援したくない人もいる。
それでいいんじゃないかと思うわけです。
だって「良く分からないし、関わりたくはない」という気持ちは自然だし。
それが「よく分かる」ための時間的コストをかけてる暇はないわけだし。
その自然な気持ちを全部否定して、
ひどい!応援するべき!応援しないなんて差別!(もっと寛容になるべき)
なんていうものこそ不寛容じゃないのかな。
応援してほしかったら、応援してほしい人が伝える努力して気持ち変えてもらう行動を起こすしかないと思うのだけども。
正義と寛容
自分の正義に酔って踊らされないでほしいなぁと思う。
自分の正義と相手の正義は違うものを見ている。のでね。
自分の正義のためにエネルギー量を上げることは必要なこと。
でも、いろんなスタンスの人がいて当然だということはいつも噛みしめておかないと脱輪事故を起こしますよ。
いろんなスタンス
・(応援度100)活動参加や寄付などで応援してくれる
・(応援度80)「いいね」とか「リツイート」とかの行動で応援してくれる
・(応援度50)気持ちはいつも応援してくれている
・(応援度0)どっちでもいい
・(応援度-5)勝手にやってはるのはいいけど関わりたくはない
・(応援度-10)応援したくない
・(応援度-20)応援しない
・(応援度-100)反対運動を起こしてくれる
※応援度は完全な主観直感ですので悪しからず。
※愛憎裏表なので、悲観しすぎないように。都合のいい解釈を。
※うちは、応援度50~-10の方々ダラケな感じ。もうちょっと応援度上げてもらえるようにしたい!
正義が強いと、自分の正義以外には不寛容になるがち。
正義あるあるですね。
これがまた自分が正しいと思っているからこそたちが悪いうえに、応援してくれる人の存在がそれを強化するので、ね。
応援してもらうためには、分かりやすい正義を輝かしく力強く打ち出さないといけないわけだから。よくよく自覚しておかないと。
単純で複雑。愛憎裏表。
こういうアンビバレントなお話をそろそろまとめていきたいなぁ。
その感覚を受け入れる。これ、かなり重要な概念だと思うので。
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