「意味があると思った人のところにしか意味は降ってこない」
「意味があると思った人のところにしか意味は降ってこない」んだなぁと改めて。
特に大学の非常勤とかで行う、大教室での講義なんかのときによく思う。。
とか言いつつ、逆に学生のときは全くもって単位取得以外の意味を見出さなかったわけだけど。そう考えるといつの時代も同じようなレベルとも言える。特別今の世代がどーのこーのというわけではない。
ともあれ、教壇に立つ立場になってみると「少しでも先の人生に援用できる角度で」と思って考えてしまう。そして、やっぱり最初の言葉が高い高い障壁として立ちふさがる。
こちらがどれだけ良いと思うものでも、一方的に送り付けるだけでは身には付かないもので。それは、どんなに良い知識も、どんなに良いやり方も。
そして、世はお手軽コスパが趨勢の時代でもある。
「“何”を言うよりも、“誰”が言うが大事」
結局、人と人との関係の中では「何を言うよりも、誰が言うが大事」ということになる。
このあたりは、そういうことを言われるまでもなく、
例えば、同じような投稿でも、ある人はバズり、別のある人はインプレッション数が全然上がってなかったりするのの違いなどで身近に分かるでしょう。
また別の例として、不登校とか高校中退支援を考えたとき、
保護者が何とかしようと思って持ってきた情報は、
本人にとっては“またか” “めんどい” “ややこい” “だるい”、になることも多く、
その場合、良かれと思って持ってきた情報が一層の分断を生む皮肉な結果となってしまう。
その知識を言ってくれる“その人”が誰なのか。
- 権威などですごさがあるのか
- 納得感のある希望を持たしてくれるのか
- 役立つことを言ってくれるのか
- 自分の考えに近いことを言語化してくれるのか
- なんかよく分からんけど惹かれるのか
とにかくこの「誰か」が「意味そのもの」になってくれるので、労せず分かりやすく便利に意味を生み出すことができる。が、反面、この「頼れる誰か」を見つけることも継続的に頼ることも相手に依るところが大きくなってしまう。
自分一人で意味づけするためには
なかなか自分で「意味がある」と思い込むのも難しかったりするので、
まずは自分自身の行動によって、気持ちは後からついてきてもらういつものやり方を考えよう。
となると、まずは何らかの自分での行動、ということなので、何でも良いので行動を作っていくことが必要となる。
- 何かに「自分で申し込む」なり
- そのために「自分でお金払う」なり
- 「あらかじめ下調べをする」なり
- 何かに対して「何らかのリアクションを出す(振り返りも含む)」なり
- (ほかにもいろいろあると思うけど、何がおススメですかー??)
そうすることで、自然と「何で自分はこれをしているんだろう」「これには何の意味があるんだろう」を自問しながら、
そっちの方向に意味が見つかっていく可能性が高まる。もしくは、考えることを止めてその方向に進み続ける、ができるようになっていくような気がする。
進みだした後に潜むもの
「意味があると思ったら、意味が降ってくる」という話は、
逆に、「思い込んだらそれまで」=「意味ないと思ったら、意味ない」「無理と思ったら、無理」とも言える。
なので、サボりたい生き物である人が、「意味があると思って」or「意味とは無関係に」進み続けるというのはかなり難しい。あっという間に、やらないの方向に進んでいってしまうのが人間(だから、「困ったら大変な方に行け」は大体正しいと言うことになる)。
- 気持ちの強さ
- 気持ち折れない程度のハードル
- 気持ちを補ってもらえる成果
いろんなものに恵まれて、また恵まれるように行動して、行動→気持ち→行動のサイクルを回していかない上手くはいかない。
いやぁ、地道に積み上げていくのが大変だ。
(サムネにはfirefly(adobe)を使用しています)
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません