この記事では、指摘を受けた時に、それを活かして更なる成長に繋げていく人と、それによってやる気もやれる自信も無くして殻にこもってしまう人との違いについて考えていきます。
なお、指摘する側には悪意や敵意などの加害意図は全くなく、相手の成長を想い願っているという性善説な前提で考えます。
1.資質と行動などの立ち位置の整理
ここでは、指摘を受ける側の内面にある「資質」と、それによって現れる様々なもの、の2つについて考えていきますの。それらを分類しながら言葉の意味を明確にしておきましょう。
1-1.内面、その人に関わる全ての根源
この記事では、その人のそもそもの持っている「素質」と、これまでの人生でその素質の上に築かれた「素養・力量」のことを合わせて「資質」という言葉で表します。といっても、普通の言葉の意味と変わらないものですね。
「資質」:生まれつき持っている性質や才能。それに加えて、その性質や才能によって磨き上げられた能力や素養のこと
これはかなり内面にあるものなので、本人すら明確に確認できるものではありません。そして簡単に変化するものでもなく、直接影響を及ぼすことも出来ません。
ですがその反面、特に自分に信頼や自信がない場合、簡単に揺らいでしまうものであったりもします。友人や家族をはじめ様々な他者から、さらに自分自身から、ほんの少しの言葉や気づきでそんなものが全くないように感じてしまったりするものです。
例え自分への信頼や自信があったとしても、タイミングによって、言葉や気づきの角度によってあっという間に揺らいでしまうこともあるとても扱いの難しいものでもあります。
1-2.内面から現れる諸々
「資質」は自分の内面であり土台であり、なかなか意図して変えたりすることが難しいものであると思います。一方こちらは、それと比べるとまだ変えようのあるものです。むしろ私はこれらを生きやすい形に変える1つの方法として「勉強」を使いたいと思っています。
内面からの諸々は、外側から順番に
・外側への行動としての「発言・行動」、
・外側からの反応としての「認知・解釈」、
・そのような捉え方や行動をしてしまう「クセ・習慣」、
・そういったクセや習慣を作ってしまう「性格・人格」。
※これを書いていて、マザーテレサの言葉とされたりされなかったりする名言を思い出しましたので、出典がてらの共有です(明確な出所は不明とされています)。
「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」
話は戻って、この内面から現れる諸々について眺めていると、「ほめる・しかる」についてTOB塾の講師たちと研修していたことを思い出しました。それは端的に言うと「褒めるときは内面や変えにくいものをポジティブな言葉で褒め、叱るときは結果や環境など変えやすいものを叱る」ということなのですが、ここでの話も同じです。(TOB塾スタッフ研修「ほめる・しかるを考える」。)
「変えていきたいこと」は「褒める」か「叱る」のどちらかで言うと「叱る」側のことになります。なので、できるだけ変えやすい外側のことからアプローチするのが良いと思われます。そうです。「発言・行動」から変えてみる、特に自分自身と向き合うという点では「行動」、その種類と回数、要するにいかにたくさんのことに挑戦していくかが重要になってきます。
2.人が変わるということ
先ほど、「生きやすくなるように勉強を使って行動や認知などを変えていきたい」という旨のことに少し触れましたが、「人が変わる」ということはそう簡単なことではありません。今の状況と生きやすい状況が大きくことなる場合、変えないこともたくさんになったり、大きく変えないといけなかったりと、それはそれはかなりの大変さを伴います。
これまでに知らず知らずに身についてしまっていることを一つ一つ吟味して、時にはこれまでを否定しないといけないこともあるかもしれません。さらにそこから自分自身と向き合いつつ変えるための努力を必要とするということは、それはさながら「パンドラの箱を開けるような行為」とも言えるかもしれません。
「パンドラの箱」とは、ギリシャ神話に出てくる「開けてはいけない箱」のことです。この箱には様々な災いや人間のマイナスの感情などが詰まっていて、その箱を開けるとその災厄が飛び出して世界が取り返しのつかないことになる、という話に由来する例えです。
実際、変化の過程でつらくなったり絶望したり、そういったことに直面してしまうこともあります。
そこを無事に抜けられるかどうかの重要な要素に「資質」があるのですが、それについては次章に話をしていきますので、それ以外の切り抜けるための武器とも言えるものを、以下に列挙しておきます。
- 変化に伴う大変さを受け流せるようなメンタリティか、
- 自分自身でできる発散や整理の方法を知っているか、
- 自分自身の小さな変化に喜びを感じられるか、
- 周りの人たちと一緒になってできる発散や整理の方法を持っているか、
- 周りの人による自分が納得できるポジティブな評価がもらえる状況か、
- 変化していくことを周りが純粋に応援してくれる環境に居るか、などなど
ただ、「パンドラの箱」は災厄を振りまくだけのものではありません。あらゆる災いがあふれ出た後、最後の最後に箱の底には「希望」だけが残ったと伝えられています。
この「希望」こそ「生きやすさ」であり「成長」というわけです。
3.資質の存在感
さて、1章で述べていたように、「資質」はとても揺らぎやすいものです。いや、「資質」自体は変わりにくいものでもありますし、しっかり存在しているものですが、それは目には見えないものです。そのため、少しの出来事がきっかけで「自分の資質が在るのか無いのか」、「ちゃんと自分の思う通りの良いものなのかどうか」など、自分の資質に対する信頼がすぐに揺らいでしまうようなものなのです。
そういった自分自身の感じ方次第で簡単に揺らいでしまうような土台であるので、その「資質」を①信じられない場合と②信じられる場合によって導かれる結果は大きく違います。
概念的な話だけだと少し分かりにくいため、この先は「学習・勉強」をテーマにして少し具体的に考えていきたいと思います。
3-0.勉強というもの
「勉強することは、できない自分と出会い続ける取り組み」です。ある範囲の学習が進んで分かるようになったとしても、また次の単元に進めばできない状態からのスタートになります。
このように、勉強を続けることとは、続けていく限りできない自分と出会い続けることになります。だからこそ「やればできる」という自覚を持てたり、「できた自分が認められてうれしい」などの満足を味わったりして、「できない自分」に向かっていくエネルギーを回していくことが大事になります。(このサイクルについての話はこの記事の主題とは違う角度になりますので、ここまでに留めておきます)
さておき、できない自分と出会うことは、自信が試されることでもあります。勉強することで自信が試され、その自信は土台たる「資質」を信じられるかどうかにも繋がっていきます。
そう考えると、自信がない人は資質を信じられないために成長を得るのに苦労をし、自信がある人は資質も信じられるために成長に繋がる機会が多くなります。「持つ者はさらに与えられて豊かになるが、持たざる者は持っているものまでも取り上げられる」(「聖書の文章」マタイによる福音書13・12)みたいなこの世のあるあるはここでも現れてきます。
3-1.自分自身の資質を「信じられない場合」
ということで、ようやく本題です。
資質は目に見えるなど実感を持てるようなものではないため、資質を信じられないということは、その人にとって資質の存在感はゼロ、つまり無いものと同じです。
さらっと言いましたが、「自分に資質がない」と思うということは、自分に土台がないことと同じです。要は、精神的に安心して落ち着けるような場所がないということになります。
そのため、学習を進めるうえでの「発言・行動」や「クセ・習慣」などは鎧や盾のような防具的な役割にそのステータスを振ることになります。を担います。
例えば、「自分にはできない、分からないと思う」「今週は○○で忙しいから」など先に間違っても良いように、学習が進められなくても良いように予防線を張ってみたり、できなかったり間違ってしまったりしたときに聞いてもいないのに「経緯や理由」をあれこれ共有してみたりといった具合です。
そして、この守りの行動は、同時に攻めの行動から遠ざかる行動でもあります。それは、「できないと言ったし、最悪できなくてOK」「間違った理由を説明したからこれで一安心」など、自分を慰める道具になってしまう可能性が高いためです。
3-2.自分自身の資質を「信じられる場合」
一方、資質と言うベースがあるということは、「発言・行動」や「クセ・習慣」について指摘を受けたとしても、それはあくまで自分の外側の話であるという受け止め方ができます。そうするとあくまで外側であるので自分自身の本体や内面(その存在や人格、資質)などへの攻撃とは捉えなかったり、受け取るダメージを軽減したりすることができるでしょう。これだけでも「信じられる土台」があるかどうかで大きな違いが生まれています。
まだそれだけではありません。土台があることで攻めに転じることもできます。
例えば、周りからの指摘を成長の機会としてむしろポジティブに受け取ったり、間違ったことやできなかったことを素直にオープンにすることでより的確な改善策を手に入れたりすることもできるでしょう。
このように、資質を信じられる場合は、「発言・行動」や「クセ・習慣」などは剣や槍のような武器的な役割にステータスを振ることが可能です。
3-3.資質を信じられない場合に受ける追い打ち
資質を信じられないということは「資質が無い」のと同義であるという話は3-1の通りです。この状態でストレートに指摘を受けた場合、どうなるでしょうか。
「資質の存在への信頼」がある場合は、「行動など」の外側を否定されたとしても、まだ本体ともいうべき「資質」が残っています。
しかし、「資質が無い」場合は、「行動など」が全てとなるため、それが否定された場合、ダメな私以外何もない、ということになってしまいます。この全否定されたかのような感覚は、余計に自分自身に疑心暗鬼を呼び、パニックを引き起こす予感すら感じさせるかもしれません。
そうなると、まずは目の前のこと(=全自分)を「指摘されない」ための振る舞いに全精神を集中させることになるでしょう。その結果、「指摘されなくてよかった」というある種の成功体験により、「その場をしのぐためだけの新たな防具」を手に入れてしまうことにもつながります。
この「その場をしのぐためだけの新たな防具」というのは「その場をしのぐ」という一見こちらから攻めている(武器側)かのような印象を与える厄介な存在でもあります。防具側の人で、手っ取り早く何とかしたい、リスクは極力減らしたいなどの思考を持っている人はこの手の罠にはまりがちです。
4.資質のあるなしの実際
4-1.資質のあるなし
この「発言・行動」や「クセ・習慣」への指摘というアプローチは、ある程度のやり取りをして、ちゃんと進んでいける資質があるなと思った人にしか取りません。そして「資質がある」と言うととても仰々しく聞こえますが、そんなに大層な話ではありません。「意思疎通」と「自分で考えること」ができるかどうかぐらいのものです。
4-2.資質のある人とない人のこもごも
「自分への信頼」がある人、持てるようになった人は、比較的スムーズに学習を進めていくことが多いです。そして、その関わり方についてもそこまで難しさを感じることはありませんのでここでは詳しく話すこともないでしょう。
「自分の資質を信じられていない」人の場合、こちらの関わり方としては指摘するべきことは一緒に確認しながら、同時に「資質があること」をしっかりと繰り返し伝えていきます。
それでも、時には全否定されたかのようなしんどさを経験したりしながら少しずつ進むことになるので、生半可ではない道のりをたどります(そのためこちらがピュアに相手の成長だけを見ていることを伝えつつ進めます)。体感的には、本人が前に進んでいることが実感できて、「資質があること」をコンスタントに伝えられて、頭や心のもやもやが熟成される前に整理ができる週2回以上の関わりがある方が上手く進められる可能性がかなり上がるように思います。
そして、さらに難しい状態だと思うのは、
「自分に資質があるとは知っている(やればできると思っている)が、今がすでにいっぱいいっぱいである」という状態の方です。
もちろん、本人さんとしては「資格を取りたい」「入試に受かりたい」という気持ちがあるから来ているのだけれど、「来ているだけで精一杯である」「それ以上のものを求めるな」という感じの応答になりがちです。そういう状態の場合、こちらとしては「資格を取る・入試を突破するための知識だけを持って帰ってもらったら良い」という訳にもいかないと思うのです。なぜなら、「資格や入試」のモチベーションをクリアしてしまうと、その人にアプローチする角度を失ってしまうからです。その結果、進学後、卒業後、就職後にその向かい合ってこなかった自分がよりこじれた形で姿を現すような気がしているからです。
まぁ塾としての関わりができていればそれでいい。という意見もあるかと思いますが、こちらの記事で最後に書いたような状況を考えると、それを放っておいて言い訳はないですよね、ということになります。
かなり難しい道だとは分かりつつ、それを通す方向性を引き続き考え続けていきたいと思っています。