大韓航空機撃墜事件から35年を経て④
宗教そのもののお話が長くなってしまった前回(こちらから)。
大韓航空機撃墜事件から今の私のところまで語るシリーズ。
もうしばらくお付き合いください。
さてさてぐっちです。
CM?をはさんで戻ってきた自分史を語るコーナー。
今回で宗教的な考えによって支えられている話は一旦区切りにしたいと思います。
見えない父としてのキリスト教
母はとても敬虔なクリスチャンだったので、こんな平凡な、いやなんちゃってクリスチャンの私が、母が考えてきたこと想ってきたことをどれぐらいつかめているのかは不明ですが、勝手に母を支えてくれたであろう聖書の言葉を有名どころの1つだけ紹介したいと思います。(ここを掘り下げると、全然自分史が進まないのでw)
考えてみてください。
30そこそこの女性が、突然一人ぼっちになった悲しみの中“”一人でたくさんの子どもを育て上げなければならない”と思った気持ち、その覚悟。
そして“子育て”だけはほんとにやり切って力を使い切った姿を思い出すと、何かそういった信仰の力に支えられているとしか思えないのです。
(それに加えて念の力「制約と誓約」(HUNTER×HUNTER)あたりを覚えずにはいられないのですが、この辺の話はまたすごいマンガの概念みたいな形で、別で紹介しますね。関連26)
守られている安心感
一人で子どもたちを育てるには、
・まず、命がしっかり守れるのか、
・みんな一緒にいれるのか、
・育てるだけのお金はどうするのか、
・人間としてちゃんと成長させてあげられるのか、
などなど、
それはもう悩みといえるのか分からないぐらい壮大で継続的な心配が続くわけです。
これを自分というものだけで立ち向かっていては
きっと、つぶれていただろうし、
うまくいかないいろいろが子どもに向かうことだって全然あり得るわけです。
でも、それを母はそうはならなかったし、しなかった。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」(イザヤ書41章10節)
その理由の一つに、わたしはベースにこのような言葉が支えていたのではないかと思っています。そして、「祈り」を大事にしていた母の姿や教えを思い返すと、キリスト教と、神とともに歩むことで安心して前に進めているという感謝であふれていたように思います。
このように、きっと母はいろんな聖書の言葉を信じ、力をもらっていたんだろうと思います。
信じることの力を信じている
「あなたともにいる」と言われても見えないし、“そんな言葉がどうなのだ”と言う人もきっとたくさんおられると思います。
有名な言葉に「信じる者は救われる」という言葉があります。
これはきっと本当です。
「わたしはあなたとともにいる」を信じる。
「自分を理解してくれる味方は、たった一人いればいい」というような言葉が良く言われます。たった一人でも味方してくれる人がいればなんだか安心するし力がもらえる。そんな経験がある人も多いと思います。
この“たった一人の理解者・味方”が心の中にずっと「ともにい」てくれるようなものです。
これはもう心強く、安心に値するものになっていくのでしょう。
また、これが何の後ろ盾もないような自分勝手な都合のいいように使ってしまうと、ややもすると「自分の都合の良い方向」にひたすら走っていって周りの人からも理解されないような独善的になってどんどん孤立していくのだろうけど、幸いにもキリスト教的な「考え方」がある程度は方向性を守ってくれる。
だから母は1人でもブレずに子どもたちを育て切れたんじゃないかなと思います。
相反するものを一緒に持つ強さ
少しずつ聖書の考え方を離れて私の話に寄せていきますが、
キリスト教の教えは、大きな優しさももちろんありますが、一方で厳しさもあります。
優しいから厳しいし、厳しいから優しい。
聖書には神の愛も、神の裁きも両方とも書かれています。
このアンビバレントを受け入れていくことは、私の人生の糧としてとても大きなものであると思っています。
正しいものを正しいということは簡単です。ただ普通の人にとっては正しいだけを全うして生きることはとてつもなく難しいことです。それゆえに、いろんな背景を抱えれば抱えるほど、正しさだけに従って生きることは難しくなっていきます。だから人の世では正しさだけではうまくいかないこともとても多いのです。
(もう少し正確に言うと、考えの出し方で”正しさ”を語って・押し付けてしまい、考えの入れ方で”正しさ”に追われてしまうわけですが、この辺りも長くなりそうなので別で。関連27)
そして、正しく生きられなくなったとき、
「正しくない自分はダメだ」と思うのか
「正しくない部分も正しい部分も、正しくなろうとする部分もいろいろ持っていていい」となるのか。
次の一歩を前を向いて進めるのはどちらでしょうか。
相反する感覚の両方を内包することができる精神はとても強いのです。
すべてを“自分”だけの想いで生きないこと
また、母の「祈り」の話が出てきたので、私の「祈り」の話も少しだけ。
「祈り」はいろんな力を与えてくれます。
わたしは、祈りの効用の一つに、言語化することによる客観視なんかもあるんじゃないかなぁと思います。
客観視できると、今の状況をより正確に把握できますので、より適切な次の一手を選んだり考えたりすることができるからです。
ただ、生きているといろんなことがおこります。次の一手が打てたとしても全て自分の都合のいい結果になることなどありません。いいことも悪いことも。思い通りになることもならないことも。そして、そのすべてが“自分”の基準でしか生きられない場合、“悪い”を“悪い”として、“うまくいかない”を“ダメな自分”として受け取ってしまいがちです。
いろんな考え方に触れて今現在の私は、
「(結果が良くても悪くても)御心の通りにすべてがなりますように」
と祈るようになりました。これも信仰によって得られたものだと思っています。
もちろんうまくいかない時に、凹んだり傷ついたり悲しんだりすることは当然あります。しかしそれも、御心の通りなのであれば私には分からない何かがあるのかもしれないと思えることで、少しだけ気が楽になるのです。(少しだけでは全然ショックが和らがないこともあるんですけどね)
宗教はこの”信仰すること”を深めていくともちろん“奇跡”とかの話につながっていけるし、そこからもっと奥深いものが広がっているのですが、それはまた別の話にいたしましょう。(関連28)
一旦概念的な思想的な宗教的なお話は区切ります!
次回はいよいよ、高専中退の項。実はここにも事件とのつながりがありました。
(つづく)
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